時間と別れるための50の方法(41)

 ●有機体の起源——光と闇が交差する場所
 光に満たされた「前」の世界。そこには確かに存在がphenomenon=現象として開示し、「自己」という意識が自然世界とともに立ち上がってきています。しかし「後」の世界の方はどうでしょう。「後」は決して見ることはできず、絶えず闇に包まれた仄暗い空間です。そして、この「後」を「前」として見ている存在、それが「あなた」です。わたしの後であるところの闇を、あなたはあなたの前であるところの光と見て、同時に、あなたの後であるところの闇をわたしはわたしの前であるところの光として見ている。皮肉にも、わたしとあなたでは光と闇の関係が真逆になっている。対化が持った例のキアスム(双対性による交差配列)がこのψ5~ψ6レベルでも当然のごとく構成されているわけです。次元観察子ψ5~ψ6レベルにおけるこのキアスムの構成を念のために前回の図2に描き加えてみることにしましょう。
 
4次元から見た次元観察子ψ5とψ6の双対性

 この図からも分るように、自己と他者においては、4次元から見た場合、人間の内面の対化(ψ6~ψ*6)と外面の対化(ψ5~ψ*5)の関係が相互に反転しており、ψ5はψ*6と、ψ*5はψ6と互いに捻れるようにして交差関係を持っていることが分ります。これらの捻れは、以前少しご紹介したように、他者を通して得た鏡像を無意識の主体に自己同一化させるための反転作用を意味しています。つまり、ψ5を真の主体だとすると、このψ5は他者の眼差し、つまり他者の視野空間ψ*5を通して、自らの鏡像をψ6として作り出し、そのψ6を今度はψ*6側へと反転させ、ψ5としての本来の主体を観察するということです。これは、精神分析的に言えば、主体が「他者にとっての他者」として想像的自我を形成する際の構造をそのまま表していると考えることができます。

 これを普通の言葉で端的に言い直すと、無意識の主体は他者の「後」を利用することによって「前」である自分自身を対象化することができているという意味です。本来、前には距離など存在しないにも関わらず、そこにあたかも空隙があり、自分と世界が分断させられているような感覚を人間が持ってしまうのは、この他者の後側に想像されている次元観察子ψ*6がもたらしている時空感覚と言ってよいでしょう。つまり、「わたし」は自分の身体を他者の身体イメージに重ね合わせることによって、自分からの空間の広がり、そして時間を感じているということです。

 この図で双対時空として表されている次元観察子ψ6とψ*6の差異は簡単に言えば、他者から広がって見える空間か、自分から広がって見える空間かの違いです。もっとも、わたしたちの意識はそれらの両者さえも同一化させていますから、その場合はすでにψ5とψ6が中和された形での次元観察子ψ8が作用していると言えます。ψ8はψ6とψ*6を同一性の空間に投げ込み、その差異を見えなくさせてしまいます。

 さて、フロイト-ラカン心理学が言うように、「わたし」という存在の基盤が他者の眼差しに照らされてこの世に誕生してくるものだとすれば、ヌーソロジーの文脈では自我とは「闇の中に堕ちた光」ということになります。これはご存知の通り、旧約ではルシファーと呼ばれている存在です。光としての自分に気づくことなく、時空の中を彷徨う物質的視線の群れ。その契機は「わたしの前」があなたの眼差しのコピーによって、後へと変えられてしまったときに生じたものだと考えていいでしょう。このとき、現象としての「前」だったものがわたしの顔貌へと反転し、世界はそこに虚像として集約されてしまうのです。顔貌はその意味で仄暗いロウソクの炎に照らし出された輪郭のおぼつかない仮面にすぎません。誰もが他人の顔のように自分の顔をありありとイメージできないのも、顔貌がこうした陰の中にその生い立ちを持っているからです。

 しかし、人間はこうした仮面を被ることで人間として生きることを可能にしています。つまり、人間として生きるには、「前」としての本来の自己を一度、見失うことを条件としているわけです。そして、互いにこの「前」を見失ってしまった同志である「わたし」と「あなた」がこの闇の中で対面すると、両者はこの不気味な仮面をつけたまま、決して互いの存在を認めようとしない頑固な生き物に変わってしまいます。変な話です。互いは互いをコピーし合って生きているにかかわらず、相手を尊重するのを拒むのです。いや、ひどい場合になると、相手を自分の支配のもとに自分と同一化させようとしては、それに絶えず失敗し、相手を憎しみの対象としてしまう。輪郭も定かでないたかが自分の顔一つのために、です。オレの顔に泥を塗ったな。オレの顔を潰したな。オレの顔が立たないじゃないか。人間の顔に対する執着はそのままψ*6からψ6への退行を意味します。これこそ、まさに後ろ向きな生き方というものです。

 仮面を首尾よく反転させることさえできれば、そのまま世界面そのものになります。「わたし」は別に顔を纏った人間である必要はありません。ネイティブアメリカンが言うように、風であってもいいし、山々であってもいいし、動物であってもいいし、植物であってもいい。誰でもないわたし。決して名付けられることのないわたし。Mr.Nobodyとしてのわたし——そうした万物たる「わたし」に気づいたとき、「わたし」はおそらく不死になるでしょう。そして、そうした万物の有り様としてのわたしは巨大さや矮小さなどといった些末な3次元的な概念からは解放され、異次元の存在として、永遠の中へとすっと音もなく潜り込んでいくはずです。——つづく