反転した空間はどこに向かうのか―

かつてルドルフ・シュタイナーが語ったように、私たちは内包的なものを外延的に、外延的なものを内包的に体験することができなければなりません―ジョージ・アダムス『エーテル空間
 
ここ最近紹介している「反転した空間」の意識化はシュタイナーのいうエーテル空間領域の扉を開くための基礎認識です。「内包的なものを外延的に体験する」とは精神を空間へと外化させるということを意味し、一方「外延的なものを内包的に体験する」とは世界を内在に変えることを意味します。
 
「反転した空間」においては「ただ一つの宇宙点(アダムス)」とも言っていいような点が現れます。それが「非局所」的点のことだと思って下さい。昨日、記憶の中心核と呼んだものですね。「どこでもここ、いつでもいま」と言っていいような位置のことです。シュタイナーはこれを「中心的な外的世界」と呼んでいます。
 
物質空間では記憶は脳の器官に保存されると考えていますが、ヌーソロジーでは意志的記憶であれ、無意志的記憶であれ、記憶はすべてこの中心的な外的世界の中に保存されていると考えます。否、保存されるというよりも、持続においては過去は真の現在そのもののようなものなので、「同時にある」のです。
 
ここは言葉を変えれば死の世界と言っていい場所になるでしょう。つまり、死とは肉体側に自己中心化していた空間が消え去り、「中心的な外的世界」側へと反転を起こすことだと考えるといいと思います。非局所的な永遠の現在へと意識の重心が移動するということですね。
 
その意味では反転した空間の認識への浮上は、死の知覚、死の復活と言ってもいいものになります。
 
これがもし真実ならば、わたしたちはとんでもない勘違いをしていることになります。肉体の死をわたしたちは死と考えているわけですが、反転した空間が見えてくると肉体は物質空間と反転した空間の接合点として感覚化されてきます。
 
つまり、肉体は非局所と接しているからこそ、歩くのです。走るのです。そして、座り、立ち、見回すことができるのです。そして、この肉体において命として生きているのはこの反転した空間の方です。物質空間の中には生命力はありません。というのも、物質空間には持続の力は存在していないからです。
 
死を持ち出すと、どうしても宗教臭くなってしまいますが、別にここで霊魂は実在する、なんてことが言いたいのではありません。そのような霊魂といったような概念もそろそろ破棄していい時期ではないか、と言ってみたいんですね。
 
霊魂とはその正体が何かわからないものに漠然とつけられた名称のようなものですよね。シュタイナーのエーテル空間にしてもそうです。存在は感じるのだけど、誰もそれをカタチあるものとして認識したことはなかった。
 
しかし、反転した空間が文字通り反転した空間としてカタチを持って認識され、それが構造的に素粒子(物質粒子)と一致するということが分かってくれば、霊魂という言葉も素粒子という言葉ももはや意味を全く失ってしまうような新しい世界に出ることができます。
 
こここから始まる思考が創造の思考です。ヌーソロジーなりの「外の思考」です。思考の外部に存在する真の思考です。
 
「全き外部」を到来させましょう。もうその時期です。

外の思考