カガミからタマヘ―今日は少し古神道的に

前々回と同じ内容だけど、今日は少し古神道的に。図も少し変えてあるよ^^
 
カガミの本質は何かと問われればヌースは「それは他者の視野空間だ」と即答するだろう。このカガミを通して主体はまずは見られるものとしての自分の足場を固める。人間が経験する世界の構成はこうして他者の虚軸をもとにして構成されていく。本来の主体は自らの虚軸としてあるにもかかわらず、だ。
 
これが「転倒(ニーチェ)」だと考えるといい。構造としての他者が世界を構成し、経験的自我はあくまでもこの構造の中で受動的なものとして構成されていく。
 
鏡に映された空間の中で世界が構成されていくと意識に何が起こるかは簡単に想像できるだろう。それは本来の奥行きと幅の関係がひっくり返って世界が出現してきてしまうということだ。ほとんどの人間が奥行きを距離(延長)としてみてしまうのもこのカガミの効果が働いているからだと考えるといい(下図の赤色の部分)。
 
そして、重要なことは自分自身の視野空間もまた他者にとってはカガミとして働いているということ。他者に経験的自我を与えているのは自分自身の眼差しだということ。このことにもわたしたちは意識的にならなくてはいけない。
 
物部の秘儀はこの関係をオキツカガミ(他者の視野空間)とヘツカガミ(自己の視野空間)と呼んだ。そして、この二つのカガミは荒御魂とされている。互いが映されることの方ばかりに重心を置き、映す方に意識的になれていない状態を表しているのだろうと思う。
 
ほとんどの科学者たちは科学的宇宙観と人間の倫理感を別物として考えているようだ。しかし、世界の成り立ちを物質だけで考えるということは世界を鏡像空間の中に幽閉することに等しく、そこでは自己も他者も互いに抗争を続ける荒御魂の姿であり続けるしかない。
  
量子コンピュータに未来を任せるのもいいが、ここはもう一度、物質の基底がなぜ複素空間で成り立っているのかを真摯に考えるべきだろう。下側から出現してきた自分たちの本性にすべてを任せるのか、もしくは自分たち自身が上側に住む自分たちの本性へと立ち還るのか―。
  
いずれにしろ、人間は人間始まって以来の最大の岐路を経験しつつある。
 
マルの中にチョンを打つとしても、実はそこには二つの異なる方向があるということなのだけどね。
 
下図を見てじっくり考えてみてね。

カガミからタマへ