物質的生態学から霊的生態学へ(1)

●自然は人間を憎んではいない
 
僕はどうもエコロジーというのが苦手だ。エコロジー思想の根底には、「人間は全体の中の一部であり、その意味では特別な存在ではない」という平等主義的な人間観がある。「すべての生き物はおしなべて全て平等であり、全ての生き物が等しく生命の尊厳を持ち、それぞれに生きる権利を持っている。これらの権利を人間が一方的に剥奪し、自分たちの快楽のために自然を陵辱することは許されない。」こうしたディープエコロジストたちの主張は確かに至極まっとうな意見に聞こえるのだが、果たしてこれは本当だろうか?
 
1999年、『もののけ姫』というアニメ映画が大ヒットした。この映画の中で動物たちは次々とタタリ神となって動物神としての高貴な心を捨て、自分たちを迫害した人間たちに復讐心を燃やす。もののけの姫であるサンはありったけの憎悪を込めて「人間は許せない」という台詞を吐く。
 
地球規模での環境の危機が叫ばれている今日、こうしたメッセージは確かに分かりやすい。しかし、野生動物たちを擬人化して人間が諸悪の根源かのように思わせる表現手法は、逆に動物たちまでをも人間化して道徳的な存在に変えようとする極めて人間主義的な態度のように思えないこともない。自然は無為であり無垢である。そこで展開している生死のドラマには善も悪もない。こうした神聖な生死の有り様に、僕らは「ああ、何てかわいそう」という同情の感情を上塗りし、その感受性を免罪符代わりにしてはいないか。事実は『もののけ姫』もまた自己満足的なカタルシスとして消費されていく商品にすぎないのだ。
 
おそらく自然破壊によって死滅させられていく動物たちには、サンが持った人間に対する憎しみなど微塵も理解することはできないだろう。彼らは自らが滅ぼされてゆくことに何の感情も持つことなく、また、その理由さえも何も知ることもなく姿を消して行くだけなのだ。それだからこそ、僕ら人間は全自然に対して計り知れない責任を負っていると言うべきではないのか。エコロジーがいくら生命中心主義を唱えようと、それは人間中心主義の枠を出ていない。結局のところ、すべてが自分かわいさゆえの自然保護なのだ。