物質的生態学から霊的生態学へ(2)

●一人の人間が死ぬとき、すべての動植物の一対もまた死ぬ
 
さて、人間は本当に地球の中のガン細胞なのだろうか? 神様の予定調和に逆らって生まれてきた狂った欲望機械なのだろうか。僕にはどうもそうは思えない。むしろ、自然や生命という美名のもとに「人間」という存在があまりに過小評価されていること。このことの方がよっぽど問題ではないのか。数千万という種が存在する地球上で、何故に人間だけが言語を持ち、道具を使用し、文明を作り出す能力を持って、今ここにこうして存在させられているのか――現在の常識の中では、人間の知性が持つこのような傑出した能力さえも、環境を生き抜くための生物進化の結果ぐらいにしか考えられていない。ダーウィン的な弱肉強食のパラダイムと今的な共生のパラダイムという二つの相矛盾する進化観のバランスを取るために科学者たちはシステム生命論でお茶を濁している。
 
自然世界全体が共生的に進化してきたのなら人間のような全体を破壊するような種が出てくる理由は分からない。また弱肉強食説をとっても人間のような脆弱な種がなぜ生き残ったのかは説明できない。いずれにしろ人間という存在は進化論などで説明できる類いのものではないのだ。
 
ここで「霊的自然」という言葉を思い出してみよう。この言葉は一体何を意味しているのだろうか。古代の人たちは世界中どの民族であれ、自然の中に精霊や神を見ていた。シャーマンたちが「動物や植物たちの中にスピリットが宿る」というとき、それは決して動植物にも人間と同じような意識が宿っている、ということを意味しているわけではない。人間の魂と動植物たちの魂は僕らが未だ預かり知らぬレベルで深く一体化している。真のシャーマニズムとは、そうした人間の中の動植物性と自然界の中の動植物性を貫く交通空間の聖処を語り継ぐものである。
 
アフリカのドゴン族は言う。「一人の人間が死ぬとき、すべての動植物の一対もまた死ぬ」と。多少の誇張はあるにせよ、この言葉には動植物の霊性もまた人間の霊性の一部であるという考え方が色濃く反映されている。
 
僕ら一人一人の魂のうごめきの中には、自然の生き物たちのすべての造作や鳴き声や仕草が埋め込まれているのだ。これはほんの少しの想像力があればすぐ分かる。凶暴な魂がおとなしい魂の肉を食らう。卑しい魂は屍肉の周囲に群がる。狡猾な魂は美しい魂を罠に陥れようとする。僕らの心の中の風景とジャングルの中の風景は瓜二つではないか。
 
ならば、美しい野鳥が姿を消して行くのは、美しい野鳥のような精神の羽ばたきが人間の中から消えて行っているからとは言えないか。神々しい森が枯れ果てて行っているのは、樹木のような神々しい精神が死滅していっているからとは言えないか。ライオンや虎などの猛々しい動物たちが絶滅していっているのは、ライオンや虎のような猛々しい精神が消滅していっているからとは言えないか。自然破壊とは霊的破壊の現れなのだ。
 
こうした人間観のもとでは、動物たちが人間を敵視するなどいった自然VS 文明の二項対立など生まれ得ないのが分かるだろう。なぜならば、すべてが人間の情念の産物だからである。
 
今日もどこかで
喜びの感情が殺されている。
笑いの感情が殺されている。
悲しみの感情が殺されている。
怒りの感情が殺されている。
 
自然が滅び去っていく姿は人間の霊性が持った多種多様な想いの糧の枯渇であり、人間の感情や思考といった魂の生き様が今やその生命力を失いつつあるのだ。その意味で、今救済されるべきは動植物ではなく人間自身の精神である。