三種の神器における「たま」について

後ろ(見られている空間)で世界を見てしまうと、本来の前が内部化して、物の基盤である物質粒子となって現れる―数学的にこの仕組みをストレートに表しているのがケーリー変換というやつだと思ってる(下画像はhttps://www.slideshare.net/yutohorikawa/cayley-57826500より借用)。
 
自他においては前後が逆なので、当然、こうした変換が二組考えられ(内部/外部が逆になる)、それらを等化するところにSU(2)やSL(2.C)という群が作用している、って感じだね。それによって、空間の外部と内部を差異化させる「物」とともに時間と空間を作り出されてくる。次元観察子Ψ9~10表示のケイブコンパスはこのプロセスに至るまでの知覚空間の階層秩序を表現している。
 
そういえば、この内部/外部の分離問題に対して、OCOT情報が「それは三種の神器における『たま』のこと」と言っていたのが面白い。こんな感じだ。
 
三種の神器とは?
 
玉とは転換のこと。
転換を持つものすべて。
剣とは対化のこと。
カガミとは精神の方向性のこと。
精神が反映を持つこと。
新しく次元が生み出されるときがカガミ。
 
ここで言っている「転換」とはヌーソロジーでいう「位置の転換」という概念のことで、次元観察子Ψ8の領域に対応している。さっき紹介したケーリー変換が立体化して球体とその外部が生まれる場所のようなものだ。物の顕現と言っていいだろう。まさに「玉」の出現だ。
 
この辺りのOCOT情報は、中沢新一氏なんかが言ってる、日本古来の「たま」の思想との親和性を感じさせる。OCOT情報の実際は、それより遥かにハイパーだけどね。

「モノ」と「タマ」
 
確か、中沢氏も「ものとの同盟」という論考の中でハイデガーに触れていたと思うけど、ハイデガーの「性起(エルアイグネス)」における〈時-空〉という概念も、この仕組みに近い。つまり―それをそれ自身のほうから現れてくるとおりに、それ自身のほうから見えるようにする―ということ。
 
一度、中に入って外に出てくるような認識を作らないと、外のことなんて分からないんだよ。科学的思考はそのあたりのことを全く押さえていないものだから、世界を無茶苦茶にしてしまう。向かうべきは外じゃなくて内。外についても内側から語ることのできる内なる知性(ヌース)を作って行かないと。

ケーリー変換