7月 27 2015
肯定が先行する空間へ
カタカムナのいうアマとカムとは幅と奥行きの関係に等しいと考えていいと思います。アマウツシとはカム=奥行きからアマ=幅への変換性(移し)、カムウツシとはアマ=幅からカム=奥行きへの射影性(写し)。自他においては両者が逆に構成されているところに、このウツシ性の無限なる反復性が反映されてます。
無限小と無限大を変換する無窮的運動です。この骨格が物理学的に表現されているのが〈x,p〉=xp-px=iℏ、いわゆる位置と運動量の非可換性ではないかと思われます。iℏは現象を映し出している光の窓のようなものではないでしょうか。
現在の人間の認識は他者-構造に従属することによって、このカムとアマが転倒しているんですね。つまり、幅側にカムが来て(シャレじゃないよ 笑)、奥行き側にアマが来ている。この転倒性が時間と空間というものを出現させています。他者-構造に同一化を強いられているということです。
この「人間」を供給し続ける恐るべき平坦性(ニーチェ)から、そろそろ出るときが来ているのではないかと感じています。ドゥルーズが言うように、同一性の空間から、差異の空間へと出るということです。
人間はNO!!と言うとき、首を横に振ります。YES!!という時は首を縦に振ります。これは否定的なものの起源が幅=延長にあり、肯定的なものの起源が奥行き=持続にあることを暗示しています。否定が先行する空間から肯定、それも絶対的肯定が先行する空間へと何とか反転を決行したいものです。
そこに至って初めて、他者-構造から解放された自己-構造が立ち上がり、人間は自らの由縁を文字通り、自由として体現することができるようになるのだと思います。
カタカムナが上古代の日本人の思考の産物ならば、かならず、日本語を使っている現代の日本人も、その精神へと向かう日がやってくると勝手に信じています。
日本人、頑張ろうよ。ねぇ〜^^。
8月 11 2015
カタカムナの詩
8月8日は福岡ヌースレクチャー2014シリーズの千秋楽となった。東京と同じように、最後のテーマは「カタカムナとヌーソロジー」。
話していて気づいたのだが、カタカムナの思念を混ぜて、素粒子の話をすると、素粒子のことを知らない人でも、素粒子のイメージが直観的につかめるようだ。いつも「マクロはミクロに巻き込まれているんですよ、反転しているんです空間は!!」などと言って、力んで吠えているのだが、カタカムナを通して語ると、そんな力みも必要なく、すぅ~と、概念が聴く人の中に浸透していっているのを感じる。これもまた、カタカムナの言葉が持った思念のヒビキゆえのことなのだろう。
下に小難しく書いた内容を昨日ツイッターで次のようにコンパクトにカタカムナ人たちの思念で表現した。
「アマはアメとなって大地に降り注ぎ、アメはマリとなってアマを映し出す。アマはそのままマリに宿り、マリはマトマリとなってアマナ(原子核)となり、そこにトキトコロが現れ「もの」が降り立つ。原日本的な「ひとつ」がここにある。。」
すると、これを「詩」にして返してくれた人物がいた。誰とは敢えて言わない(笑)。これにはビックリして、思わず「Wow!!」と反応してしまった。ヌーソロジーがギャーギャーわめかなくとも、知っている人は知っているのだな、と。じ~ん、ときた。
——星の雫は地に染みて、水の鏡に天映し、コロリコロリと鞠となる。玉は生まれて魂となり、凝りて巡りて踊り舞い、時と処の基となる。時始まれば、天の魂、地とまぐわひて種を産む。芽吹き花咲き実をつけて、永久の働き繰り返し、練りて捏ねれば一となる。鏡曇らば天映さず、泣いて嘆いて歪みたまふ哉——行雲流水
マクロはミクロへと巻き込まれ、ミクロは「わたし」と「あなた」の出会いの場となって、美しい物質たちをトキとトコロのあちこちに花咲かせる。そこではトキトコロとはわたしたちそのもの。
日本語の精神だけが、このトキトコロと共に生きている。アウノスヘシレカタチサキ——。まさに、わたしたちは、わたしたちが「一つになる」ということの意味(アウノスヘ)を、ユダヤ-キリスト教的な「愛」のようなまやかしを乗り越えて、正しく知るべきときに来ているのだろう。カタカムナ人の心はきっと蘇ると思うよ。この国に。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カタカムナ関連 • 2 • Tags: カタカムナ