5月 13 2016
局所と非局所の重なり(物質空間と霊的空間の重なり)
Φさんのツイートでの指摘について。
――今ヌースがレクチャー等の現場で説明されているSU(2)対称性の範疇は、出て来る関連用語の、SU(2)群、スピノル、パウリ行列、ディラック行列などの用い方などからすると、大局的位相(グローバルゲージ)変換で十分である域をまだ出ていないと思います。
というのは、局所的位相(ローカルゲージ)変換の際に導入される共変微分における接続係数であるゲージ場を、果たしてヌース的にどう解釈するのかという問題があるからです。
局所的位相(ローカルゲージ)変換としてのSU(2)対称性の説明が登場して、ようやく素粒子と自然界の4つの力の本質に立ち入ることができるのではないかと考えます――
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この指摘について分かりやすく話しておこうと思う。
ヌーソロジーの空間に対する思考様式というのは実は極めて単純なもので、局所化してバラバラになっている空間と時間の位置を反転認識によって、非局所としての一点に集めようというところにあります。それによって「どこでもここ、いつでも今」を形作っている魂としての空間のカタチを認識に浮上させるようとしているわけですね。持続空間が認識に上がってくるということです。
この非局所としての持続空間が、物理学にいう大局的位相(グローバルゲージ)変換と呼んでいるものが行なわれている場所だと考えるといいと思います。物理学はこの場所を内部空間と呼んでいます。内部空間は非局所ですから、当然、この空間での回転は時空上のあらゆる位置での回転として同時に反映されてきます。
しかし厄介なことに、時間と空間自体がこの内部空間から作り出されるという仕組みが物理学の中にはあります。それを司っているのが、Φさんがここで書いているSU(2)群、スピノル、パウリ行列、ディラック行列といった数学的な機構です。早い話、内部空間の中である種の回転が起こると、自動的に時間と空間が生み出されてくる仕組みがそこにはあるということなんです。
そして、さらに厄介なのは、そのとき作り出されてくる時空上の一点一点(局所)に、今度は逆にこの内部空間が張り付いてくるような仕組みが付け加わります。つまり、非局所と局所が絶えず重なり合うような空間構造が生まれてくるということです。
もちろんここで「重なり合う」と言ってるのは、通常の空間と反転した空間を目の前で二重化させて見ているヌーソロジーの空間認識からの表現であって、素粒子を単なるミクロの対象として見ていない物理学では「局所に非局所が張り付く」というようなイメージで表現されます。
で、Φさんのいう「局所的位相(ローカルゲージ)変換」というのは、時空上の一点一点に張り付いたときに生まれる内部空間の位相のズレを元に戻すような変換のことを言っていると思って下さい。この変換をヌーソロジーでは、局所化した認識を影で元の非局所へと戻そうとしている働きとして解釈します。
要は局所と非局所が時空と内部空間という両者の間で追いかけっこしているわけですね。この「局所→非局所、非局所→局所、局所→非局所~」という追いかけっこをドゥルーズの言葉なんかを援用して、「巻き込みと繰り広げの反復による襞の生成」とか気取って言っているわけですが(笑)。
で、ヌーソロジーでは今のところ、「巻き込み=反転」の思考作業によって非局所の場所まで辿り着き、それが時間と空間に繰り広げられているところまでは朧げに見えてはいるものの、その重なり方がまだハッキリしてません。本当はどこでもここであり、いつでも今であるはずの空間が、どのようにして空間と時間によって限定された無数の「ここ」と「いま」に繰り広げられているのか、そのイメージが今ひとつつかめていません。
これは言い換えれば、Φさんが言うところの「局所的位相(ローカルゲージ)変換の際に導入される共変微分」という数学的操作の構造と意味がまだハッキリと理解されていない、ということを意味しています。Φさんはそこを鋭く指摘しているわけですね。確かにここが突破できると、無意識の構造がかなりクリアに見えてくるのは事実です。
ここで「クリアになる」と言っているのは、素粒子のシステム=無意識構造という考え方が多くの人に相互了解可能になるという意味ですよ。OCOT情報のおかげで答えの方はすでに分かっているので、何とかその答えに辿り着く論理の道筋を削り出そうと思います。頑張るにゃ~。
この局所と非局所の仕組みが明らかになり、無意識化している非局所的空間の方をベースに人間が生きれるようになれば、人間は全く別の生き物へと進化するのではないかと思っています。それがヌーソロジーのいう「顕在化」という出来事ですね。知性による物質の霊化の始まりです。
5月 24 2016
君よ、精神のアーキテクトたれ
記憶の実在感を取り戻そう。記憶は魂の力能だ。「過去は過ぎ去って今はもうない」というのは、現在の傲慢だ。むしろ、過去の方が去来する現在を見続けているのである。その意味で、存在しているのは現在ではなく、過去である。過去の濃度を取り戻すこと。そこに主体のフランチャイズを置くこと。
この時間的な重心移動は同時に、例の観点の球面化と連動している。主体を世界の中におくのではなく、世界を主体の中におくイメージ。観点を世界に包まれた点として捉えるのではなく、観点を球面化し、逆に世界をその中に包み込むイメージ。このとき出現してくる球体を文字どおり球体として知覚できる認識を鍛え上げていくこと。それが魂と呼ばれていたものに他ならない。
人間の空間認識は一方的に物質方向に開きすぎている。これは比喩なんかじゃない。ダイレクトな空間知覚の問題として言っている。主体が世界を包む空間側においては、すべての位置は同じ位置なのだ。その不動の位置感覚がわたしたちが「記憶」と呼んでいるものの正体だ。
物質として開かれた空間と、記憶として閉じた空間。この相互に反転した二つの空間の差異が見えてくれば、どちらが生の実体であるのかはすぐに判別がつくことだろう。物部の民たちが生玉(イクタマ)と死返玉(マカルガエシノタマ)と呼んだ二つの玉の関係がこの両者にはある。
生玉(イクタマ)を取り戻すこと。それは魂の浮上であり、浮上した魂は霊の発芽となる。
こうした表現がオカルティックに聞こえるなら、哲学の言葉に置き換えてもいい。ここでの話はライプニッツ=フッサールのラインを辿れば、自己のモナド認識と言っていいものであり、この位相に立って初めて思考は先験的な相互主観性、相互モナド認識の場を実体的に形成できるようになる。それが物理学がスピノル場(クォークのアイソスピン空間)と呼んでいるものと考えるといいだろう。
わたしたちはここにおいて、「位相─微分─射影─アフィン─ユークリッド」という幾何学のヒエラルキーを逆に辿り、最も深い霊的幾何学の場へと到達し、精神のアーキテクトとしての能力を持つに至る。
思考は創造空間=死後の空間を開くことができる。嘘は言わない。もちろん、それが完全に開くまではかなりの時間はかかるだろうが、人間の意識はその方向へと向かう転機を迎えている。
まずは、物質側へと開いた空間から、記憶側へと閉じている空間に自らの生の重心を移動させよう。それがヌーソロジーが活動している場所である。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: スピノル, フッサール, ライプニッツ