60億総Poserの時代

 一昨日あたりから、この間購入したPoser6(ポーザー・シックス)を本格的に使い始めた。もちろん、テキストに導入するイラストや、ネット上でのアニメーションコンテンツの作成のためである。ソフトに詳しくない人たちのために言っておくと、Poser 6とは人体3D作図専用の最新版ソフトのようなものだ。おそらく、3Dアニメーションで人体が登場する部分はほとんどこのPoserシリーズで作られているのではなかろうか。それくらい人気の高い代表的なソフトと言っていい。

 まだ、触り始めたばかりなので何とも言えないが、最近のPoserは各関節部の動きが連動するように作られているようだ。かなり昔にPoserの古いバージョンを触ったことがあったのだが、そのときはまだ諸関節の動きの連携はこれほど巧みにプログラムに組み込まれていなかった。そのため、例えば、足首や膝、股関節といった三カ所のジョイントはそれぞれ独立して自由に動かすことができ、初心者がいじくっていると、複雑骨折したかのような不自然なポーズがすぐにできてしまう。一度、関節がグニャグニャになってしまうと元に戻すのがもう大変。そのために即ギブアップした記憶がある。しかし、現在のバージョンは、親切にもそうした不自然な関節の動きの連携を許さないように初期設定されているようだ。例えば、歩行のポーズを作るときに右足を出せば自然に左手が前に出てくる。けんけんのポーズを作るときに右膝を軽く曲げ左足を上げれば、右肩が落ち体全体は若干右に傾く。そういう姿勢に自然になってくれる。その意味では大変、使い勝手がいい。しかし、このプログラミングは、裏を返せば、不自然な関節の連携は禁止する、というおふれ書きに取れないこともない。このソフトではUSAの陸上選手のような走りのポーズはすぐに作れるだろうが、ナンバ走りをする江戸時代の飛脚を表現するにはかなり面倒な操作が必要となるだろう。

 世界観と身体観は同期して変遷する——。近代的な物質的世界観の中では身体観もまた物質的な枠に閉じこもってしまった。いわゆる3次元認識のクセに沿って、三次元の物質的身体感覚が養成され続けているのだ。このPoserはまさに、そうした身体イメージの総仕上げのように感じる。実際にPoserを触っていて感じるのは、身体にこういった動き以外はあり得ない、否、あってはいけない、という統制である。実際に使っていて言うのも何だが、フーコー風に言えば、身体を機械として管理する眼差しをより一層強化させるツールであることに間違いない。

 そろそろ身体を物質概念から解放してやってはどうか。ヌース理論の考え方では、(人間の外面という意味で)身体と身体の周りの空間は区別することができない。見えている風景そのものが皮膚なのだ、という言い方をするのもそのためだ。とすれば、毎日のように繰り返される他者との情念の交流は身体の生理作用と直結していると言えるし、モノを見て何を感じそこから何を表象しているか、といった思考作用でさえも、身体の代謝機能と別物ではない。いうなれば、わたしは、常に、身体とともに、身体の内部で生きているのである。自身の身体を物質のように見る眼差しは真のリアルから逸脱したナルシス的自我=水子の目によるもの以外の何ものでもない。自分を外部から見るのではなく、内部から見ること——内側から見た身体とは世界そのものなのだ。

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