10月 12 2008
時間と別れるための50の方法(43)
●ψ*6上でψ5はどのように見えるのか――位置の等化の風景
わたしが自分の周囲に広大な空間の広がりを意識しているとき、その広がり自体が人間の内面*としてのψ*6になっているということを前々回にお話しました。このとき実際に見えている人間の外面としての知覚球体=ψ5自体は、何度も言うように奥行きが同一視されることによって超ミクロの微小領域の中に3次元球面として丸められており、ψ*6が意味する時空の原点Oに貼り付いたようにして入り込んでいます。
このように、次元観察子という概念を通して見ると、僕らが普段「わたしを中心とする空間の広がり」と何気に称している空間は「わたし」を規定するψ5と、「わたし」からの広がりを規定するψ*6が二重に重なり合うことによって成り立っていることが分かってきます。ヌーソロジーの考え方からすれば、前者は哲学者たちが実存(知覚の場所)と呼んでいるもの、後者は科学者たちが実存(物質の場所)と呼んでいるものにとても似ていると言えます。
また、このような空間の二重性を前提におくことによって、「現時刻」という瞬間性の中にすべての時間が集約された形で現象化している人間の意識の在り方をうまく説明することができるようになります。つまり、周囲の空間を時空=ψ*6として捉えているときには、その中心点では刻一刻と時間が刻まれ、毎瞬、毎瞬という点時刻があたかも車窓から見る風景のようにあっと言う間に過去へと流れ去って行き、その反対に周囲の空間を自分自身=ψ5として捉えたときは、そこでは過去、現在、未来へと至る時間はすべてその知覚球体の直径の中に4次元空間として凝縮されおり、そこには、永遠の現在が現れるというからくりになっているわけです。人間の意識において、瞬間と持続が「今」という現象において重なり合い、想起や直感がつねに「現在」として起こるのも、人間という存在が4次元時空と4次元空間が持つこのような二重性の接点として存在させられているからでしょう。
さて、時空*=ψ*6の原点にこうして知覚球面=ψ5が貼り付いているとするならば、僕らが時空として世界を眺望したとき、周囲の風景のいたるところに知覚球面が張り付いていても不思議ではありません。原点とは単に便宜上定められたものであって、時空上のどの位置であろうが原点となり得るからです。たとえば、3日前のこの同じ時刻にもわたしはこの椅子に座っていたとします。その時間を原点と考えれば「いつでも今」としての知覚球体はその3日前に移動していることになります。このときは文字通り主体が三日前にタイムトラベルを行っているわけです。物理的に言えば、当然、そのときの光は3光日(光速度で進んで3日かかる距離)の彼方に飛び去っていることでしょうが、奥行き方向はψ5においては常に同一視されているわけですから、知覚球体自体は時間の経過に対して何の影響も受けません。
では、空間的な移動の方はどうでしょうか。あそこに見えるビルの屋上を時空の原点としよう、と思えば、そこに「どこでもここ」の知覚球体は一瞬にして移動することが可能です。もっとも、このときは時間の移動とは違って、3次元球面として表された知覚球体内部では、原点の空間的移動(x,y,z方向への並進運動)に伴って3次元球面上でそれぞれの3方向への回転が起こることになります。しかし、知覚球体自体としての3次元球面自体はやはり全く同一のものです。
つまり何が言いたいのかと言うと、知覚球体(3次元球面とその自転軸)としての「自己=ψ5」が「いつでも今、どこでもここ」としての存在ならば、時空認識の中ではあらゆるところに偏在することができるということです。となれば、時空上のすべての点は客体であると同時に主体と呼んでいいものになります。このことは、「真の主体は客体の中に息づいている」というベルクソンの達観の幾何学的説明に相当していますが、こうした「遍くわたし」の様子を『人神/アドバンストエディション』では空海の言葉を借用して「即身」と表現しました。
重々にして帝網のごとくなるを即身と名づく――空海が『即身成仏義』で著したこの言葉は華厳経に登場するパールネットワークのイメージを彷彿とさせます。重々帝網とは、いかなる部分にも全体が映り込み、無際限にその像が反射し合っているような状態のことを言います。今風に言えばホログラフィーやフラクタルのイメージです。即身成仏というと、物質概念にまみれた僕らはすぐに即身仏を連想して、お寺の中でミイラ化しているお坊さんを連想しますが、空海が説いた意味は全く違います。もともとサンスクリッド語での「成仏(アビサンボーディ)」という言葉は「仏に成る」ということではなく、「仏である」ことの意で、仏であることとは「現等覚(げんとうかく)」のことであるとされています。現等覚とは読んで字のごとく「あらゆるものが等しいものとして見える」ということです。いわゆる差取り(悟り)ですね。まさに、重々帝網の風景とは、いつでも今、どこでもこことしての、即身成仏の姿そのものであるわけです。
ヌーソロジーではψ5が人間の意識に顕在化を起こした状態を「位置の等化」と言いますが、この状況はまさにこの空海が語った「即身成仏」の風景に酷似しています。主体の位置と客体の位置が同一のものに感じられてきたとき、世界はどのように見えなければならないか——それはまさしく空海が言うように、世界のあらゆるところに世界自身が重々帝網を為して映り込むということです。しかし、こうした描写だけではまだ自我の拠点たる時空概念を解体させるほどの意味の強度は生まれません。見るものは見られるものである、主体は客体の中にいる、これら過去の神秘家や哲学者たちの達観が人間の意識を変えるだけの力を持てなかったのも、その意味の強度に不足していたからだと言えるでしょう。問題はこうした達観をどのようにして僕らの現実的な知識に接続させていくかということなのです。——つづく
11月 25 2008
時間と別れるための50の方法(53)
●4つの霊珠(たま)
七つの玉には7人の姫がついて守っておるのじゃぞ。
その姫たちが目覚めて、いよいよ岩戸開きの到来じゃ。
天と地がぐでんとひっくり返るぞ。
こころしてかかれよ。
今まで見えぬものが見えるようになり、見えたものが見えなくなるぞ。
あるものがなくなり、ないものが出現するぞ。
ちょっとヌーソロジーっぽくないコテコテの前振りではありますが、今まで説明してきた次元観察子ψ1~ψ8の構成をごくごく単純にまとめると下図1のような4重階層の球空間として表すことができます。これでヌース(旋回的知性)が7つの玉のうち4つをつかみ取ったことになります。もちろん、残りの3つの玉とは次元観察子ψ9〜ψ10、ψ11〜ψ12、ψ13〜ψ14のことです。
これら4つの球空間のうち、次元観察子ψ1~ψ2を除く三つの球空間はそれぞれが相互反転関係にあるペアを持っていると考えて下さい。そのペアが奇数系観察子と偶数系観察子が形作る球空間の関係に相当します。各球空間について再度まとめておきましょう。
1、第1のたま(点球)………次元観察子ψ1~ψ2(触覚空間?)
モノの内部を構成している球空間。モノがどんどん膨張していくようなイメージの方向が次元観察子ψ1。反対にモノがモノの中心方向に縮んでいくようなイメージの方向がψ2に当たる。結果的にミクロからマクロへの空間の膨張イメージがψ1となり、マクロからミクロへの空間の収縮イメージがψ2となる(下図2参照)。
上で次元観察子ψ1~ψ2だけは相互反転性を持っていないと書きましたが、これはどういうことかと言うと、現在の人間の意識にはψ1とψ*1、ψ2とψ2がそれぞれ同じものに見えているために、球体の表面を単なる球面としてしか捉えることができません。これは自己側のψ1~ψ2と他者側のψ*1~ψ*2が相互に捻れを持った関係(キアスム)で認識されていないということです。このようなノッペリとした球体認識がψ3に始まる次元観察子の顕在化を抑止しています。ヌーソロジーではこの抑止状態のことを「止核(しかく)」と言います。比喩的に言えば、プレアデスに降ろされた錨のことです。この「止核」は端的に言えば「物質」という概念のことと考えるといいでしょう。
「止核」は人間の意識次元を安定して活動させるために真実の人間の意識が作り出しているものです。しかし、止核の力が強大になりすぎると人間の意識は精神の方向性を持つことが難しくなってきます。止核がもたらす最も大きな弊害の一つに尺度概念の絶対化が挙げられるでしょう。尺度は空間を均一的な場と見立て、モノが存在しないところにまで長さや面積、体積等の度量衡をあてがい、空間に潜在化している次元の差異を見えなくさせてしまいます。『人神/アドバンストエディション』にも書きましたが、例えば、科学者たちが「宇宙の大きさは半径約137億光年である」と言うとき、そこでイメージされている空間は目の前にあるパスケットボールを極限にまで膨張させたようなイメージの空間になっていることが分かるはずです。このイメージ形成はモノの内部の球空間の表象が、そのままモノの外部空間=ψ3や人間が生きる場=ψ5、さらには人間全体の生きる場=ψ7を闇で包み込んでいるも同然です。この尺度化の体制は今や地球の外部空間はおろか宇宙全体の空間までをも支配し、人間の意識を物質的な空間の中に閉じ込めてしまっているわけです。
このように空間を次元観察子ψ1~ψ2のみの中で思考することは、人間の空間認識がモノの内部に幽閉されているのと同じ意味を持っていることが分ります。モノの内部次元である点球は、そこには観測者は存在し得ない(つまり、見えない)という意味で光なき世界であり、点球の内部にすっぽりと包み込まれてしまって認識されている宇宙はある意味、すべて幻影世界と呼んでいいものです。しかし、ヌーソロジーの観点から言えば、これは意識進化のための必然だと考えられます。というのも、こうした尺度化の体制がミクロからマクロの全域に及んだとき、上次元が止核を解除し、人間の意識に最終構成を働きかけてくるような仕組みが精神構造の全体性には存在させられているからです。——鍋の底抜けたら、帰りましょ。というやつですね。
2、第2のたま(垂子)………次元観察子ψ3~ψ4(視覚空間?)
観測者がモノの周囲を巡ったときに、モノの外部を構成しているように認識されている球空間。この球空間には二通りのものがある。一つはモノの背景方向を半径とする球空間。もう一つはモノの手前方向を半径とする球空間。前者が次元観察子ψ3で後者が次元観察子ψ4。ψ3の球空間の内壁は見えるが、ψ4の球空間の内壁は見えない(下図3参照)。
ψ3の球空間への方向性は、まずはモノの背景空間として出現してきます。この背景空間の登場によって、モノを「図」、背景を「地」としたモノの内部と外部の差異が出現してくることが分かります。このときモノの背後方向に無限の長さを持つと想定されている奥行きの線分は人間の外面では一点同一視され、4次元空間のルートを通してモノの中心点付近まで縮んで入り込んできます。いわゆる光のゼロベクトルです。これは人間の外面がモノの内部側に入り込んでくる最初のルートとなります。この空間ではモノにおける全表相の見えの記憶がイマージュ(ベルクソン)として蓄えられていると考えられます。結果、ψ3の球空間は一つのモノに対する主体の位置となります。
ψ4の球空間はψ3がψ*3によって相殺されて生まれる位置です。ψ4にとってはψ3が消え去っているわけですから、このψ4は意識がψ1~ψ2に戻されている領域という言い方もできますが、ψ3を経験したあとに戻されているという意味で、最初のψ1~ψ2とは位置的に若干の違いがあると考えて下さい。つまり、ψ1~ψ2では観測者は不在ですが、ψ4になると観測者が内面(対象の手前側の位置)に把握されるようになるということです。人間が一つのモノの外部に広がる3次元空間を描像するときには必ずそのどれか一方向に自分の目の位置を感じ取っているはずです。その目の位置がモノの周囲を動き回ることによってψ4が形成されているということになります。言うまでもなく、自分の目の位置というのはψ3とψ*3(自己の視野と他者の視野)があって、初めて存在できるものなのです。――つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 0 • Tags: イマージュ, プレアデス, ベルクソン, 人類が神を見る日, 内面と外面, 表相