2月 18 2014
奥行きの中に垣間みた永遠世界のクロッキー
このところ奥行きへのdevotionが続いている。たまには幅の世界へと戻らないとヤバイ(笑)。
奥行きに身を捧げることは永遠に身を浸すということになるのだろうから、死を永遠の生へと転ずるための一つの身振りということでもあるのだろう。この存在に沈み込んでいく感覚を単なるムードではなく、どこまでリアルなものへと掘り下げられるかは、その風景の描写にかかっている。まだまだ潜行が足りない。
無限大が無限小へと舞い降りるという事件を目の当たりにして個人的に一つ分かったのは、今まで無限大と無限小という観念のもとに二つの未知としていた対象は二重化した自分自身の在り方にすぎなかった、ということだ。
今まで巨大なシャボン玉のように世界の包括者として君臨していた時空間(=自我)が単純な実体としての自分自身に気づき、キラキラと七色の光を放ちながら物質のもっとも深いところへと旋回しながら舞い降りて行く。ライプニッツ的なあまりにライプニッツ的な聖霊降臨という出来事。
ライプニッツに拠れば「モナドには窓はない」。とすればこの事件は極めてパーソナルな、自らの内在での出来事ということになる。もちろん、それはそれでいい。だけど、果たして、この内在としての生の中で「永遠の汝」と出会い、そして一体化するなんてこが可能なのだろうか。出会えるとすればどうやって?
ケイブコンパスを素粒子の生成地図にあてがって、イメージを広げる限り、直接の出会いはどうも難しい。たとえ出会ったとしても、必ず二つのものへの分化が起こるということを地図は物語っている。対称性は常に拡張されていくものだから。。
しかし、これは必ずしも分裂を意味するものではない。生産的差異化のようなものじゃなかろうか。 内在原理には深く結合すればするほど間により大きな差異を累積させていくという性格があるようなのだ。2が4に。4が8に。8が16に。延々と累乗化されていく力の地層。。
この累乗化がライプニッツがいう共可能性というものの本質なのかもしれない。つまり、天上世界とは他者と「一つになる」といったようなスタティックな状態を指すのでは決してないということ。
むしろ、一つになれる「可能性」がはっきりと示されるからこそ、絶えることのない差異化が実行されていくということ。そこでは「一つなのだから別々であっていい」という背理が神の存在の根拠のもとに働いているのだ。
こんな世界だから、奥行きに住まう天使たちには、妬み、悲しみ、野心、不安といった感情はない。そこでは「君はここにいるよ」「君もここにいるよ」というメッセージだけが一つの美しい音楽としてやりとりされている。
幅の世界は相変わらずの喧噪だが、奥行きの世界では真夜中の静寂の中に降り積もっていく雪片のように、無数のモナドたちが物質のもっとも奥深いところに次々に着床していく様子が感じ取れる。内なるものへの欲望の扉がまさに開いたかのように。これからも徹底してこの内部化への欲望に準じようと思っている。
崇拝とか憧憬の対象となる神なんてものはもういらない。モナド化した「わたし」とはすでに神の身体の一滴である。だから、今度は神の身体の内部から人間世界に向かって畏敬の念を払い続けること。永遠の中に生きるとはそういうことなのだろうと感じている。
4月 16 2014
伝わるまで何度でも…
ヌーソロジーが提供する空間認識の基本は幅と奥行きの差異に目覚めることから始まります。現在の空間認識は空間を3次元と見なしているために、奥行きも幅と同一視されており、この差異が意識化されていません。奥行きとは本来、世界を見ているもの自身、つまり主体です。
奥行きにおいては目の前の点と無限遠方向との区別がつきません。これは奥行きがミクロとマクロの対称性を持っていることを意味しています。 目の前の一点を中心にしてその周りを回ってみましょう。そこで奥行きがどのように見えているか確認してみましょう。
それは常に「一点」としてしか見えていないことが分かります。
このことは、普段、わたしたちがマクロに広がっていると思っている空間が、奥行きにおいては極小のミクロに潰されているということを意味しています。極大=極小というモナド化の原理はこのような奥行きの性質を通して実現しています。
幅で空間を見ると宇宙は極大のものとなり、奥行きで空間を見ると宇宙は極小のものへと反転する——この事実をまずは感覚の中に浮上させることが、ヌーソロジーの思考を行っていくための基礎となります。
では、どうあがいても「点」にしか見えないこの奥行きの中に一体何があるのでしょうか。
奥行きは世界を見るためには絶対必要なものであることが分かります。わたしたちは奥行きなしで世界に関わることはできません。見られるものが幅とすれば、奥行きは見ることそのものであり、同時にそれはまた見ているものでもあることが分かります。
「見ることと見ているものの一致」を実現しているのが奥行きなのです。
このように考えてくると、もはや世界を見ているわたしはモノの手前に存在しているのではなく、モノのなかで小さな小さな点となって存在しているということになります。
ただし、こうした言い方はあくまでも奥行きに幅を与えてしまった現在のわたしたちの空間認識からの表現です。幅と奥行きの絶対的差異が認識に明確に上がってきた意識から見れば、奥行きはもうあるがまま、そのままで、極小の世界に存在しているという感覚になってくると思います。
今まで何度も言ってきましたが、わたしたちはベルクソンの言うように「モノにおいてモノを認識している」のです。
こうした認識が哲学の中で幾度となく主張されてきたにもかかわらず、それが力を持てなかったのは、現代科学との連結がうまく果たされていなかったからです。
奥行きを「虚軸」と見立て、わたしたちの現在の空間認識を3次元認識から複素空間認識に変え、この認識を現代物理学が展開している素粒子世界に結びつけようとしているのがヌーソロジーだと考えていただければいいと思います。
その新しい空間の風景が見えてくれば、わたしたちの意識は創造空間の開けに出ます。アルケー(始源)です。「包まれつつ包む」ものであった宇宙が、「包みつつ包まれる」という神の逆モナドの世界へと方向転換を開始するのです。そういう大きな時代の転換点がやってきています。
下写真 Monadology #1 / 落合陽一
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ベルクソン, モナド, 奥行き, 無限遠, 複素空間