6月 5 2020
十牛図の「返本還源(へんぽんげんげん)」と「入テン垂手(にってんすいしゅ)」
持続としての奥行きは延長としての幅に存在論的に先行する。奥行きは時空に穿たれた不可視の穴である。僕にしろ、君にしろ、実のところ全員がこの穴の住人であり、この穴の群れはその内部で巨大な蟻塚のようにして宙空構造を形作り、それがめくれ上がってくるとき、幅とともに光を吐き出すのだ。
光を受け取るのではなく、光を放つ側へと回り込むイメージを持つこと。それによって、私たちは物側へと立ち、自分を示すものを、それがそれ自身の方から現れてくる通りに、それ自身の方から見ることができるようになってくる(ヌーソロジーでいう思形=ψ9の顕在化のイメージ)。
ヌースでいう思形=ψ9の顕在化とは、十牛図に描かれている第九の境位としての「返本還源(へんぽんげんげん)」のイメージに近い。すなわち「本に返り、源に還る」ということだ。文字通り、自らを然らしむ、真の自己における自然の在り方ということになるだろう。(下図上参照)
OCOT情報ではこの思形=ψ9のことを「平形投影(ヘイケイトウエイ)」と呼んでいる。平形とは言うものの、これは光とともに発出する3次元空間のことだ。そこに投影されてくるものとは自他の最初の結びとしての精神。それを空間に投影してくるものとはΨ9の時間自身である。
水面から立ち上がる光………例のアクアフラットの幾何学がこの「返本還源(へんぽんげんげん)」を成り立たせていることになる。
思形=ψ9が第九の境位の「返本還源(へんぽんげんげん)」のイメージなら、自ずと第十の境位の「入テン垂手(にってんすいしゅ)」は感性=ψ10に対応することになる。(下図下参照)
第一の境位の始まりに戻るということだ。そこには、真の自己によるかつての自己(始まりの自己)との出会いの場が存在している。真の自己が自分自身を物質と出現させ(思形=ψ9)、それを見たものが再び、真の自己へと戻ろうと欲する(感性=ψ10)その円環。
これらψ9とψ10の「間」に当たる場所が、ヌーソロジーで元止揚空間(ψ7~8)と呼ばれる領域であり、物理学的には、この場所が物質を生成する基礎的な場所となっている。→核子(陽子と中性子)
9月 25 2020
ヌースが「奥行き」に至るまでの長い道のり
今度の日曜日のヌースビギナーズラック#6。素粒子の話がテーマなので、『光の箱舟』の共著者である砂子岳彦氏をゲストに呼ぶ予定でしたが、機材の能力不足でSkypeの音量調整が難しいということが分かり、断念しました。誠に申し訳ないデス。
佐藤氏亡き後、専門家でヌーソロジーと同じ方向で素粒子の世界を見ているのは砂子氏だけなので、その考え方を皆さんにも紹介したかった。本当に残念。まぁ、いずれ生出演で呼ぼうと思っていますが。
もともと、「素粒子とは人間の意識構造である」と伝えてきたのはOCOTで、その理解こそがこれからの人間を大きく変えていくと言っていたので、ヌーソロジーにとっては、素粒子物理の基盤となる量子力学の構造は意識の見取り図も同然のものなんだよね。
ところが、この見取り図自体が非常に難解なもので、正規の教育を受けてない人はまず歯が立たない。複素数の行列で表現される数式もさることながら、交換関係とか、演算子とか、考え方が根底から違っていて、一体何をやってるのか概念的にさえつかめないんだよね。
ミクロの世界は僕らの生活している3次元世界とは存在の形式がまるっきり違うってこと。もっと言うと、人間の表象能力の外部にあると言ってもいい。だから、それは量子物理学とは呼ぶものの、もはや物理的対象の世界ではない、とも言えるわけだね。
で、問題はミクロの空間がなんでそんなヘンテコなことになっているのか、ということ。その理解がなければ、量子力学の数学的理解はできたとしても、量子とは何かについては永久に分からない。
僕の場合は、量子力学より先に、OCOTたちの世界観を仕込まれた。それは意識構造を鉱物の結晶のようなカタチとして見てる世界観なんだよね。何で意識の構造が結晶のようなカタチになるかと言うと、そこは時間が流れていない世界だから。本来、カタチは時間のない世界の産物だと言うのがOCOTの弁。
この辺がとてもプラトンっぽいよね。イデアというやつだ。で、垂子やら、垂質やら、精神球やら、聞いたこともない言葉を通したやりとりが始まった。最初はほんとに何一つとして分からなかった。多分、初めてヌーソロジーに出会した人の分からなさより、その百倍くらいはあろうかという分からなさ(笑)
僕の90年代の人生は、ほとんどこの分からなさとの格闘で費やされたと言っても過言じゃないね。寝ても覚めても、自分の内側に入り、無意識のカタチを探し求めて彷徨った。5年ほどしてようやく、カタチのイメージ生まれ始め、そこから今度は物理学の本とのにらめっこが始める(笑)
そして、これがまたサッパリ分からない(笑)。結局、最初は分からないものを分からないものと照合させながら、そこに共通の分かる「何か」はないかという、自分自身が触媒になった感覚で、OCOT情報と量子本とのにらめっこの反復が続いたわけだ。まぁ、これは今でも続いてるけどね。
もちろん、まだすべてが分かったわけじゃないんだけど、内的なカタチの思考から始めたのは正解だったと思う。というのも、数式で表現されている量子が最初から内的なものとして感じられたから。普通は、量子を外的なものとイメージしている人がほとんどだろうから。
で、問題はミクロ世界がどのようなシステムによって人間の内とつながっているのかということ。量子を記述する複素数の形式にそのヒントは隠されているということはすぐに分かったんだけど、その謎が解けるのにも結構、時間がかかった。
この辺りの思考はゼロ年代に入って、ドゥルーズとか、ベルクソンとかメルロ=ポンティとか、哲学系の本を読んだのが良かった。最終的にその接続のイメージは「奥行き・持続・収縮・無限小」というターム群でクリアに浮き上がってきたんだね。
こうやって、物の外部と内部は人間自身を通して「奥行き」で繋がっているという反転の理路が完成したわけ。今ではもう確信に変わってます。
ただ、この確信が主観的確信じゃショーモないので、ミクロの物理法則の事実性と合致させるために、亡き佐藤氏や砂子氏、そしてφさんといった面々と検証作業を続けているわけですね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 02_イベント・レクチャー • 0 • Tags: OCOT情報, イデア, ドゥルーズ, プラトン, ベルクソン, メルロ=ポンティ, 光の箱舟, 奥行き, 素粒子, 量子力学