11月 26 2006
「2013:人類が神を見る日」 米国出版決定!!
「2013:人類が神を見る日」のアメリカでの英訳出版が決まった。順調に行けば来年の夏当たりにはアメリカでヌースがデビューすることになる。
翻訳はカナダ在住のAさん、ブックデザインはzavtoneのzatoさん、版元はN社。日本のスピリチュアル関係の書籍がアメリカで売れた前例はないが、年間書籍売上高はアメリカの場合、日本の5倍以上あるという。ことスピリチュアル関連の図書に関しては10倍近いとも聞いた。日本でこの10年間に3万部程度の売り上げを示したこの本がアメリカでどの程度、数字を延ばすか楽しみではある。まあ、捕らぬタヌキの何とやらではあるが、部数そのものよりも、ヌース理論のような考え方が向こうのニューエイジャーにどの程度受け入れられるか、それを是非見てみたい。
ヌース理論の思想的背景は徹底したヘルメス主義である。「上にあるがごとく、下にかくあり。」物質の世界はすべて精神の世界の影であると考えるわけだ。現在、科学はこの宇宙がビッグバンから始まり、原子、恒星、惑星、生化学物質という生成のルートを辿って人間が出現してきたと考えている。ここで展開されている進化のイメージはすべて物質的表象を用いたものだ。ヌース的思考ではこれらのシナリオはすべて精神進化の物語へと置き換えられる。つまり創造のプロセスは不可視の意識的流動の中で起こったと考えるのだ。であるから、素粒子に始まる原子、分子、物質、恒星、惑星、生物等の物質的存在もすべて意識の影である。それらがどのような意識的様態であるのか、そのすべての対応性を読み解いて行くのがヌースの醍醐味だ。そして、その読み解きの過程がそのまま新しい創造へとつながっていくと考える。その意味でヌース的な思考に入ったときには新しい創造期が始まった、とも言える。創造のプネウマの光はまだ原初の小さな小さな点滅にすぎないかもしれない。しかし、この先確実に生命樹を照らし出す発光体へと成長していくことだろう。
時空内で流動する万物を創造した神的な精神。そういったものが存在していると仮定しよう。この精神が創造されたものの外部にいるのは当たり前である。創造は時空の外部で為されるものなのだ。言い換えれば、創造された世界とは時空を超えた場所で蠢く何らかの力能の所産でもある。だから、創造について想いを馳せるには、僕らは時空の外部に出なければならない。その時空の外部は、現代科学では皮肉にも内部空間と呼ばれている。そして、そこは素粒子の構造が記述されるある抽象的な空間となっている。 時空上の一点一点に張り付いたこの内部空間こそが、楽園への扉である、というのがヌースが10年以上も前から行っている主張である。マクロを支配する時空は素粒子においてミクロと接合している。この結節に存在させられているのが人間という存在なのだ。
内部空間は数学的には複素数で表される空間なので、自然現象を実数でしか把握できない科学的知においては、その対応物を見出すことができないでいる。しかし、それは空間に対する認識が実数側に偏っているからにすぎない。虚空間に対応させることのできる空間は現実に存在する。いや、むしろ、その空間の方が僕らの現実と言っていいものだ。
実空間——想像的なもの。虚空間——現実的なもの。想像的なものと現実的なものの共同作業ですべての認識は形作られて行く。内部空間の本質は僕らが「前」と呼ぶところにあり、時空の本質は僕らが「後ろ」と呼ぶところにある。前は実像であり、後ろは鏡像である。前の集合としての空間と、後ろの集合としての空間の差異が見えれば、時空と内部空間の問題は一気に解決する。水の鏡の中から抜け出すこと。想像的自我の位置から真の主体の位置へ一気に反転を挙行すること。僕らは地上にいるのではなく、天にいるのだ。
オカルティズムの本場である西洋文化圏においてヌースの跳躍の技術がどのように受け取られるか、今から楽しみだ。
12月 20 2006
モノに潜む知性
実にややこしい話をして申し訳なく思っている。こんな話をしているのには実は訳がある。それはモノとは僕たちの眼差しが一つになるところにしか生まれ得ないということを言いたかったからだ。ヌースがいつも「物質は倫理的な力によって創造された」と言ってるのはその意味だと思ってほしい。
通常の実在概念では、人間がいなくてもモノや光があると考える。モノは人間が現れる前から無条件に「そこ」にあって、モノに当たった光がたまたま人間という生物の網膜組織を刺激し、そこに視像が結ばれるという何とも平坦な説明の様式。こうした説明はすべて時空上での出来事の羅列にすぎないことが分かるだろう。これは、例によって、世界を「後」の回転によって生まれている空間上に存在しているものと思い込んでいる物質知性の物の見方だ。現象学が明らかにしているように、こうした非人称的な場所に「生きられる空間」は存在してはいない。生きられる空間、生きられる時間が存在するのは1人称的空間としての「前」の世界である。そして、その「前」は時空上では皮肉なことに点の内部に隠蔽された場所としてしか表すことができない。その隠蔽された「前」に始まる「前後」や「左右」や「上下」という身体固有の空間を現代科学は想像的自我の温床となる「後」のみの空間に閉じ込めて、小難しく内部空間と呼んでいるだけのことなのだ。この「後」の空間の呪縛から解かれれば、僕らの知性はモノそのものの中に内側から入っていくことができる。これがヌース理論が主張するヌース(創造的知性)の発振の有り様である。
まだまだ粗雑な説明であることは百も承知だが、君にも世界のからくりが少しは見えてきたのではないだろうか。素粒子とは僕らの実存のカタチが組織化されている場のことである。それを構造主義者風に無意識構造と呼んでも構わない。ここにおいて、モノ概念は陽子に、時空概念は中性子に、そして、主体概念は電子に、自我概念はニュートリノに変わる。そして、これらは自他(対化)の関係においてすべて双子として存在させられることになる。そして、何よりも重要なことは、モノがこうした素粒子によってできているように見えている、という事実である。
モノが目の前にある、ということ。それは自他という関係を超克した超越論的な知性の力が存在するということを意味する。モノがあるから僕らの眼差しが「そこ」で統一されるのではなく、眼差しの統一があるからこそ、「そこ」でモノが作り出されていると考えなければならない。その意味で眼差しの統一とはモノそのものの生成空間への侵入口となっていると言える。人間が間主観的な態度や認識の中に生きる価値を見い出すのは、その方向性こそが宇宙の生成力にダイレクトに関わっているからなのだ。国家主義や人間主義、生命主義的な謂れの不確かな「道徳」として善を語るのではなく、存在そのものの「倫理」として善を語ること。ヌースはこのような善のみを善悪の彼岸と呼びたい。
自他の意識の統一としての物質の始まり。そのイメージを持ってモノたちの姿をまじまじと眺めてみるといい。眼差しの統一の世界に広がる空間には想像を絶するような奥行きがあることが分かるはずだ。自然界には水素に始まってウランまで92段階の元素が存在している。それらの元素を形作っている概念というものに想いを馳せてみるのだ。その概念を形成した知性が僕らが「愛」と呼ぶものの彼方に確実に存在している。僕ら人間がこれから進むべき道は、その知性へと至る道だ。
モノとは君と僕の眼差しが一つになるところにしか生まれない——再度、その眼差しを持って地球=大地を眺めてみるといい。地球は地球上に生きるすべての人間の眼差しが否応無しに一点で統一されている唯一の場所だ。世界中の誰もが地球を見つめるとき、その眼差しは地球の重心で一致する。物質的には地球の中心部には鉄があり、表面近くの地殻部にはケイ素やアルミニウムがあり、界面には水があり、それを包むように大気圏には窒素と酸素の皮膜がある。こうした地球の姿を現代科学は宇宙空間を漂うチリが寄り集まってできた土塊ぐらいにしか見ていない。馬鹿げているとは思わないか。地球には眼差しの統一に始まる創造空間内部の生成秩序がそれこそ年輪のように覆っている。地球という球体の中で躍動する幾多の精霊たちの姿が見えて来たとき、月の正体も自然に分かるだろう。そして、そのとき、僕らの意識はほんとうの太陽系世界へと開かれる。夢見るヌースの上昇の旅がここに始まるのだ。乞うご期待!!
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 7 • Tags: ニュートリノ, 素粒子