2月 21 2006
異空の夢
以前にも書いた奇妙な睡眠空間の話。。。
昨夜も異質な眠りが襲う。だいたい1ケ月に1回ぐらいのペースだろうか。わたしは起きながらにして夢見を経験する。普通の夢見の空間とは全く別物だ。この異様な空間が到来してくるときはいつも同じ兆候がある。首から上の顔面、頭部の皮膚全体が突っ張った感覚に襲われ、プチプチプチと細胞の一つ一つが炭酸飲料のような音を立て始めるのだ。「人神」の冒頭で書いていた感覚に似ている。その音で、来た!!とすぐに分かるのだ。これがくると、わたしはいつも異界探検に出る心持ちになる。意識を前頭葉あたりに集中させ、出発の時を待つ。
昨夜のプログラムはかなり面白かった。真っ暗闇の中にぼんやりと模様が見えてくる。その模様はちょうど写真を暗室で現像するときのようにじんわりと一つの映像に変化していく。昨夜、最初に見えてきたのは、何かの部屋の中の風景だった。部屋といっても窓もドアもない。床、天上、壁の一面が濃紺のビロードのようなクロスで覆われている。目を凝らしてみると、その布地の上には微細なラメがまぶされたように無数の銀の粒がキラキラと光っている。手触りを確かめようとしたが、距離感がつかめない。
そう思った瞬間、体がふわりと宙に浮き出した。そして、床がゆっくりと遠のいていく。それとともに耳元でシュン、シュン、シュンと風を切るような音が鳴り始める。風船のように軽くなったなった体が、おそらく、天上にぶつかったのだろう。背中にちょっとした圧を感じ、再び、床の方に押し戻され、床面のビロード地のラメが近づいてくる。しかし、どうも床自体はかなり遠くにあるらしい。なかなか床に体がぶつからない。と、その瞬間、空間に見えないカベのようなものがあるらしく、そこで再び、弾き返される。そして、また、浮上。そういう動きを3度くりえしたあと、耳元の例の音が急に大きくなり、4度目に天井を覆っていた膜が破れたような感触が背中一面に伝わった。わぁ!!
突如として、上昇に加速がつき、もの凄い勢いで、箱の外部の世界へと飛び出した。わたしがいた箱は直方体の箱だった。周囲には最初は何もなく、仄暗いブルーの空間の奥の方に小さく箱が見える。すごいスピードなので、あっと言う間に箱は視界から消えた。するとすぐに、レーザー光のような光線がいろいろな角度から入射してきて、ランダムな線の模様を視界に描き始めた。ナスカの地上絵のような意味不明な直線群だ。グルグル回転したり交差したり、万華鏡のような模様を描いたりしている。上昇速度はますます上がり、耳元の音はシュンシュンからキーンという金属音に変わっている。次から次に意味不明な幾何学模様が出現してきては、ときにループを作り、ほどけては、また、ループを作りと七変化していく。上昇も伴っているものだから、瞬く間にそれらは視界上で小さくなっていくのだが、次から次に現れてくるので、見ていて飽きない。こりゃぁ、まるで、iTuneのビジュアライザみたいだ。
そのうちに、周囲の金属音が遠のいて行き、ポコポコ、ポコポコと何か泡ぶくのような音が聞こえてきた。わたしの体も微妙な温度変化を感じている。少し暖かい。なんだこれは?空間の色も濃いブルーから、暗いアズキ色に変わり始めた。さきほどまで、何もない空間と思っていたのだが、どうやら、何かの液体の中に入ったようだ。目の前を丸い円板状のアメーバーのようなものが通過していく、まるで降り始めた雪を上から眺めているかのように、次々と同じ物体が視界に入ってきて、前方へと流れ去って行く。数が大量に増えてきたときその正体がはっきりと見えてきた。赤血球だ!!ちょうどミクロの決死圏の1シーンと同じような情景が目の前にライブで展開し始めた。音もゴォーという激流音に変わっている。美しい。。
そこで突然、外界の音が入っくる。誰かが車で出かけようとしているようだ。マンションの駐車場で車のエンジン音が鳴り響いている。こんなところで外界音に注意を取られてはいけない。外界に気を取られすぎるとこの空間は消えてしまう。それは過去の経験から分かっていた。慎重に目の前の情景に意識を集中し直す。。大丈夫だ。再び、血流の情景が目の前に広がる。やがて、一つ一つの赤血球から、甲高い声が聞こえて来た。声というより音かもしれない。キュキュキュ、キュキュキュというような靴磨きのときに出るような音だ。するとその音に合わせて、先ほどまで赤血球に見えていたものが熱帯魚のような魚の姿に変わり始めた。それもすごい量の魚である。わぁ。流れが速いのでよく見えないが、細長いのやら、平べったいのやら、まるっこいのやら、色とりどりの様々な種の魚の群れの中を猛スピードで通過していっている。
そのとき、一つの直感が走った。ひょっとしてこれは生物進化のプロセスを上っていっているのではないか?ちょっとできすぎた話だが、そうに違いない。最初に出て来たのはありゃ素粒子や原子だ。。ということは、次は両生類やな——と思ったのも束の間、予想は見事に外れた。魚から一気に鳥に変わったのである。さきほどまで眼前にひしめき合って流れ去っていた魚類の群れは、一気に、その一匹一匹が、これまた無数の種類の鳥へと変態していった。いつのまにか水の音は消え、数千匹もいや、数万匹はいるかと思われる鳥の羽ばたきが、ものすごい音響で鳴り響いている。
群れていた鳥の一群が消え去ると、急に耳慣れた喧噪が聞こえて来た。どこかの都市の街並だ。日本か?昼間の午後あたりだろう。雑踏の様子が次第にはっきりしてくる。どうもわたしはスポーツカーに乗っているようだ。新宿だろうか?銀座だろうか?交差点で信号待ちをしているのだ。背中はシートの圧力を感じ、風景がもう前方に遠のいていってはいない。しかし、普通に車に乗っている感覚とは微妙に違う感覚がわたしの身体を貫いている。。何だろう?これは。。身体と車がつながっている感覚、運転しているというよりも、車が身体の一部になっているという感覚。。うっ、これは。。。
と思った瞬間、映像と音声が急に不安定になり、突如として映像が意味不明の模様へと変わっていく。。。あっ、いかん。いっちまう。。
映像が消えた後、いつものように目を開く。薄闇の中に枕カバーの縁の線がはっきりと視界に現れてくる。。ふぅ〜。。さて、次回はどんな世界に連れて行ってくれるやら。。おもろいでぇ〜。
3月 15 2006
首なし地蔵になれ!!
ヌース理論には「位置」という概念が重要な役割を果たす。
普通、位置というとモノの空間的な位置を意味するが、ヌース理論でいう「位置」とはモノではなく「意識」の位置を表す概念を意味する言葉である。はてはて、意識の位置とは何ぞや?となるわけだが、その第一のものは、次のような問いへの回答として用意されることになる。
「君は一体どこからモノを見ているのか?」
君が一つのモノの見え姿を見ている位置、それが意識における第一番目の位置と定義されているものだ。
普通は、モノを見るという行為は、物体が反射した光を目の網膜が捉え、その刺激が視神経を通して大脳に送られると考えられているわけだから、モノを見ている位置とは、わたしの目がある位置、もしくは、脳がある位置ということになり、君はアバウトに次のような答えを出すことになる。
「目のあるところです。」
しかし、この質問者がOCOTだったら、おそらく次のような答えがすぐに返されることになる。
「位置が全く見えません。」
要は、そんなとこからどうやってモノを見るというんだい?そんなところに位置はないよ。というわけだ。わたしからモノは見えるが、それを見ている目は見えない。意識が自分の目の存在を想像した時点で、意識はその本来あるべき位置を失う——この言葉にはそういう意味が含まれている。
意識の仕組みを現代科学のように脳全般の機能として見るているうちは、君は意識の在り方を全く誤解しているし、意識の正体をつかむ事もできないだろう。物質全般と意識には絶対的な差異がある。それは量的な差異でも質的な差異でもない。もっと本源的な差異だ。意識の原因をいくら物質に求めたところで、この差異を埋めることは出来ない。意識を思考の対象とするには全く別な発想が必要なのだ。
ヌース理論の文脈では、物質的な要素のみで世界を見るということは、実は見えない想像的な世界に入るということに等しい。つまり、科学的理性が活動を行っている場所は見える世界ではないということだ。最も、科学が僕らの世界に様々な現象を引き起こすからには、この見えない世界は何らかの仕方で見えている現象世界につながってはいる。しかし、そのフランチャイズは人間不在の空間である。というのも、物質世界では世界を見ている人間がすべて客観的な物質、つまり肉体としてイメージされているからである。そのようなイメージで世界を見ている眼は、僕の眼でも、君の眼でも、彼の眼でも,彼女の眼でもない。それは何か不気味なる一者の目である。物質のみで世界の構造を思考する科学的理性とは、そうした不気味なる一者の思考なのである。(実はこの不気味なる一者こそがOCOTの正体であったと言うと、ちょっとはスキャンダラスに聞こえはしまいか。。あっ、これジョークね)
もちろん、これと似た批判は20世紀の始めに、フッサールが現象学的視点から行ってはいる。フッサールは、ガリレオに始まる近代の科学的思考が現象世界に持ち込んだ数学的、幾何学的な記述方法を生活空間の隠蔽として激しく批判した。フッサールにとっての真の人間の意識の進化の方向とは科学的な方向ではなく、個体が徹底して主観化し、天上天下唯我独尊的な絶対の自我(現象学では超越論的主観性という)を確立させ、そこから、各個体が大地(Erde=地球)へと接続し、その大地のもとで各主観の結合を図ろうとすることにあった。
しかし、こうした警鐘も空しく,科学的理性はテクノロジーの圧倒的なパワーのもとに、物質の究極的要素と目される素粒子世界にまで、その理性の力を行使するまでに至っている。そして、現在、その無限小の果てに、無限大とつながった奇妙な構造を目撃し始めた。。はて、この世界は一体どういう仕組みになっとるんだ?。。ミクロとマクロがつながっているような、いないような。。。物質概念を引きずったままでは、このナゾは絶対に解けない。
さて、ここで最初の問いに戻ろう。
「君は一体どこからモノを見ているのか?」
ヌース理論からの回答は実に単純なものだ。それは視野空間から、と答えればいい。しかし、ここでいう視野空間とは肉眼に穿たれた瞳孔のことを指しているわけでは決してない。水晶体のことでもない。もちろん、角膜のことでもない。頭部は忘れろ。そういった物質的な表象として想像されるものではなく、純粋に視野上に現れている空間のことだ。つまり、通常の認識では三次元空間と見なされている場所そのもののことである。そこにはいつも言うように奥行きは一点で同一視されているので、無限遠(大)がへばりついているとも言っていいことになる。これが「顕在化」における最初の位置のことである。
こうしてヌース理論は、その「位置」を作るために、まずは君の首をちょん切ることから始める。首を切られればそれは死に等しいわけだが、生きながらにして死ぬ、死してなおも生きることのできる「無礙」(むげ)なる空間へ出るためには、このくらいのことは我慢しよう。「一即多」「相移即入」なる重々帝網の世界(華厳的パールネットワーク)へと侵入するためには、こうした首切りの儀式がまずは必要なのだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 8 • Tags: 無限遠, 素粒子