4月 17 2015
「生きた貨幣」の経済圏があるといいな
久々にドゥルーズ=ガタリを眺めてみたのだけど、ドゥルーズ単独に比べると、タームは派手なんだけど、中身が薄いという感じが否めないなぁ。カッコいいんだけど、飽きちゃう。リゾームの概念とか、昔はおぉ!!と思ったりもしたんだけど、もうピンとこなくなっている自分がいます。
マルクスは資本主義を「少数の資本家と労働力を売る労働者との間に作られる生産様式」として定義したのだけど、結局、資本主義の発展とは、この両者の差をどんどん広げていくところにあった、ということになるのかね。何と夢のないシステムなことか。
資本主義機械は「器官なき身体」の侵入を恐れて、それを回避するような形で発展していっているとドゥルーズ=ガタリは言ってるね。やっぱり、「死」を開く以外に資本主義の暴走を止める手だてはない、ということなんだろうね。
贈与の経済、交換の経済、貨幣の経済と進んできて、おそらく次にやってくるのは「生きた貨幣」の経済ということになるのだろうけど、これは主体自身が交換されていく世界のことだね。死が開くと、この宇宙的経済が展開している風景が見えてくるはず。贈与経済の下部で流動するほんとうのオイコノミー。
昔、中沢新一さんが贈与の経済は量子論的空間をベースにしていたとか何とか言っていたけど、まさにその通りだと思う。量子論的空間自体は純粋贈与の経済がスタートしているところそのものだからね。
【ヌーソロジーの基礎】対象の背後と自分へと向けられた意識の方向性は全く逆。この方向の違いによって、実は空間は二つに分離しているの。でも、今、僕たちは対象の手前方向に生まれている空間しか意識していない。これが虚空間と実空間の関係(下図参照)。
対象の周りをグルッと回ってみるとよく分かるよ。
OCOT情報はこの赤い空間のほうを「付帯質」と呼ぶんだよね。青い空間のほうは「精神」。「精神」が意識に顕在化していないのがよく分かるよね。
精神は持続として働き、付帯質は延長として働いている。これは見るもの=主体と見られているもの=客体の関係でもあるんだよね。だから、ほんとうは、ものが自分自身を二つに分けているの。こういう空間認識がベーシックになると、世界の秘密が健全なかたちでどんどん解けていくと思うよ。
さっき書いた「死が開く」というのは、この精神の空間が意識に浮上してくることを言うんだよね。そして、この空間は今まで量子論的空間とも呼ばれていたところの入口なんだ。
「生きた貨幣」となって、主体が交換されていく経済の中に入っていきたいもの。とにかく、まずはその経済圏を切り開かないとね。
9月 11 2015
眼差しの場の量子論
生命が活動する空間を知るためには「見ること」と「見られること」の違いをしっかりと認識に上げることが必要だよ。「見ること」においては自分の顔は見えないよね。そこには純粋な経験があるだけ。自分が他者と同じように一まとまりの身体を持っている存在であるという認識は「見られること」からやってくる。
自我というのは常にこの「見られること」をフランチャイズにしている。つまり、自我は他者の眼差しに依存してこの世界にやってきたということ。だから、自我が日頃、意識している空間は他者が見ている空間をベースにしていることになる。これが外在世界というやつだね。そして、人間はこの外在世界のイメージを拠点にして、自分が「見ること」をも概念化している。「私が~~を見る」という表現自体がそういった概念で成り立っているということ。これがヌーソロジーのいう人間型ゲシュタルトというヤツだね。
悲しいかな、人間という存在は――初めに言葉ありき、言葉の命は光であった(ヨハネによる福音書)――というように、他者の光の中に埋もれていて、自分の光をまだ見れていないんだよね。ほんとうは「見ること」の方が先にあったにもかかわらず、「見ること」が「見られること」の起きている空間の中に沈んでしまって、無意識化してしまっている。
ヌーソロジーが「奥行きの覚醒」と呼んでいるものは、この最初に存在していたと思われる「見ること」が起きている空間を想起することなんだよね。フロイトが「幼年時代はもうない」と言うときの、その幼年時代のことと言ってもいい。「見られている」ことが起きている空間は3次元空間だけど、「見る」ことが起きている空間は3次元なんかじゃない、それを思い出せ!!ってことなの。
意識というのは常に志向性を持ってる。これをベクトルのようなもの(スピノル)としてイメージしてみるといいよ。見られるベクトルと見るベクトルというのは方向が全く逆なことがすぐに分かるよね。ここで、意識のベクトルも回転の渦の中に立ち上がってくると考えてみよう。つまり、〈見る―見られる〉という双方向のベクトルの廻りには互いに逆回りの渦が巻き起こっているということなんだ。
全世界共通、時計の針は右回りしているよね。実はこれが「見られること」を立ち上げている渦なの。時間の方向と言ってもいい。カタカムナでいうならばこれはサヌキ(右旋性)だね。男性性の力だってこと。このとき、アワ(左旋性-女性性)は文字盤として働いている。つまり、針が止まっていると考えれば、文字盤が左回りに回っているということ。文字盤は経過する時間ではなくて、それを支えている持続を意味していると思うといいよ。時間の流れを把持しているもののことだね。
見られる空間は右旋性、見る空間は左旋性。目の前で右巻きの渦を作ればその回転軸は自分の方向に向いていて、左巻きの渦を作れば、それは奥行き方向に向かっている、といったようなイメージだね。
ただ、ここで気をつけなくちゃいけないのは空間には右手系と左手系があるということ。これは他者空間と自己空間そのものと言っていいんだけど、人間の空間認識はこの区別が全くできていないんだ。物理学者だって、最初に座標系を決定するとき、これを任意に規定している。ひどすぎる。
自己の空間は左手系。そう思うといいよ。
左手で「Good!」のサインを作り、親指を自分の方に向ければ残りの四本指は右巻きに巻いていて、奥行き方向に向ければ巻きの方向が左巻きに変わるよね。自己から見た他者側のそれは右手で同じことを繰り返せばOK。
見られることは当然、他者側の見ることと一緒になって働いているから、左手の親指と右手の親指が両方とも自分の方を向くこととして表される。実はこうした自他における意識の志向性の出来事がミクロの領域で見えているのがディラック場というヤツなんだ。ディラック場では物質粒子の右巻きスピンψRと左巻きスピンψLというのが活動していて、それらがアイソスピン空間というところで混じり合っている。
「他者の眼差しによって、自我が意識される」というのは、この量子論的文脈に沿って表すとψL†ψRってことになる。ψL†(「プサイエル・ダガー」と読む)というのは、自己が見られるという意味だと考えるといいよ、他者側の「見られる」は同様にψR†ψLとなって、双方を足し合わせるとψL†ψR+ψR†ψLとなるのが分かるよね。要は見られるもの同士の結合をこの式は表しているってこと。
ディラック場では、実はこの形式で構成されているのが「時空」とされるんだよね。関係性を少し考えればすぐに分かってくるよ。渦の巻き方向が互いに相殺されて、方向性も相殺されて、自他のそれぞれ意識の志向性が見えなくさせられるような仕組みになっている。これがヌーソロジーでいう自他における「中和」の結合状態を意味していて、物理学的には「スカラー」として表現されるものなんだ。「スカラー」というのは「大きさだけは持っているが方向性がない」というもの。つまり、時空。
「方向性なきこの時空」から出るためには、再度、目の前の見えない渦に意識的になって、自らが渦を作り出していかなかいとね。それによって、時空は自他相互の二つの空間へと分解していくよ。それができて、ようやく本来の見ることが起きている内在性の空間を自分の意識によって切り開くことができるようになる。
このへんのことは前回の東京レクチャーで話したことなのだけど、そのときの図を赤ちゃんバージョンで一緒にアップしておくね。自我(見られることによって生まれる自己)がサヌキの産物だということが一目で分かるのではないかと思うよ。皆も、一度、この空間に潜む見えない渦について考えてみてね。
この渦が生命だから。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カタカムナ関連 • 7 • Tags: カタカムナ, スカラー, スピノル, ディラック場, フロイト, 人間型ゲシュタルト, 奥行き, 量子論