カバラは果たして信用できるのか?——その3

——前回よりのつづき

 アッシャー(活動界)で機能する5つのセフィラー群(ティファレト、ホド、ネツァク、イエソド、マルクト)において、マルクト以外は「器の破壊」によって粉砕された容器の痕跡が残響させているいわば陽炎のようなもので、極めて弱々しい微光しか放ってはいない。そのため、アッシャー自体はマルクトが反映させる物質に内在する神のペルソナを明確に感受することができない。それどころか、マルクト自体がケテルの倒立像と言ってもいいようなセフィラーでもあるため、ケテルの力をそのまま創造とは逆の方向へと倒錯させる性質を内包させている。マルクトの上位側に弱々しい上昇の残光が立ち上る一方、その下位側では倒錯した流出界の三幅対(トライアーデ)であるケテル・コクマー・ビナーの発する強烈な光が、存在の逆光を作り出しているという構図である。アッシャーを支配するこれら両者の霊的な力学関係は圧倒的に下位側に有利な状況を作り出す。つまり、存在の全体性はマルクトを起点として真反対側に自身の鏡映を作り出す性格を所持しているのである。ここに生まれる鏡映がルーリアがクリフォト(殻)と呼ぶ世界である(ヌーソロジー的には「止核」が作り出す「内心」と考えればよい。自我が他我化した世界である)。クリフォトはルーリアによれば宇宙の邪悪な勢力が跋扈する世界とされる。

 ルーリアが何故にここでクリフォトという新しい概念を提示したのか——そこには、当時、ユダヤ人たちが置かれていた政治的状況が深く関係していると言われている。本来、唯一絶対の創造主が、なぜ世界に悪などといった不純、不要で有害なものをもたらしたのか——ユダヤ教が持ったこの根底的な矛盾のためかユダヤ教自身、悪の形而上学を詳細に展開することに対しては躊躇いがあった。しかし、1492年にスペインでユダヤ人追放令が発令されて以降、ユダヤ人たちは自分たちの歴史が持った追放と流浪という悲壮な境遇について、ユダヤ教の教義の上から再度、理屈づけする必要に駆られた。もちろん、そこにはユダヤ人たち個々における自意識の目覚めという時代的な変化もあったに違いない。ユダヤ教の教義を剽窃したキリスト教がヨーロッパを席巻し、その本家であるユダヤ教徒たちが異端、邪教の烙印を押され謂れのない迫害を受け続けていく。当然、彼らが世界を覆い尽くしている悪の存在を強烈に意識化させられるのは当然のことだ。ルーリアの霊感はこの悪の闊歩によって危機的状況に陥っている民族のアイデンティティーを堅守、保持することを自身の使命と感じたのかもしれない。事実、ルーリアが展開したこの理論は、当時、各地に散在していたユダヤの共同体、特に一般民衆たちから熱狂的に迎え入れられた。絶望的な状況に出現したまさに一条の光だったのである。伝統的に、厳格、保守を重んじてきたユダヤ教のラビたちも大衆のあまりに熱狂的な支持にルーリアに準ずるしかなかったのだろう。そうやってルーリアの思想はユダヤ思想の一大革新運動へと発展していったという。

 では、ルーリア思想の何がそれほどユダヤの大衆を魅了したのか。「収縮」「器の破壊」に続くルーリアの筋書きはおおよそ次のようなものである。マルクトを基点としてアッシャーを仄かに覆う創造への微光とは神の花嫁としてのユダヤの民の精神そのものことである。そこにはこの微光の成長を阻止、妨害しようとするクリフォトの力の勢力が存在するが、アッシャーの存在意義はこの破壊されたイェッツェラーをそのクリフォトの力に惑わされることなく、再度、復旧させ生命の樹全体に託された創造のプロセスを完遂させることにあるとされる。これが三番目の「ティックーン(器の修復)」と呼ばれる作業だ。ルーリアが与えたのはまさに救済の具体的なシナリオであり、世界におけるユダヤ民族の存在意義だったというわけである。
(以上、参考文献 『ユダヤ神秘主義』G・ショーレム、『カバラーと批評』ハロルド・ブルーム)

——つづく