言葉を超えて声の彼方へ

言葉が彼岸(他者)と此岸(自己)の間でコミュニケーションの道具として活動できるのは言葉がこの両岸に架かる橋を渡り終えた何者かの力の現れだからだろう。「言葉は神とともにありき」と言われるように、言葉には神霊が宿っており、僕らがコミュニケーションと呼んでいるものもまたこの神霊の内部で展開されている閉ざされた交換性にすぎない。

しかし、言葉は同時に声として発せられるものでもある。文字として表された言葉もこの声としての言葉を含んで初めて成り立つものだ。しかし、声自体は言葉ではない。声は言葉からはみ出ている。言葉には成らない言葉。それが声なのだ。とすれば、声は神霊が擁する意味中枢に捕まることから常に逃れ出ようとする聖霊たちのほとばしりとも見ることができるだろう。絶叫の声、悲嘆の声、歓喜の声。。声として言葉の外部へと泉のように溢れ出る情動の流れ。

おそらく、一般に考えられているように声から言葉への進化があるのではない。言葉から一つの内なる声に向かっての進化があるのだ。この声はわたしたちの意思の内震えのようなものであり、鉱物たちがその内部に響かせている振動としての声でもある。言葉なき内なるコミニュケーション(コミュニカシオン)。。

このように想像してくると、石板に文字を刻むというあの一神教の行為がいかに野蛮なものであるかが分かってくる。一神的な思考は「22」という数の魔法に幻惑されており、わたしたちから石の中に響く声を聴き取る能力を奪い取る。

鉱物たちの中に響いている声にとっては、部分も全体も同じ——である。そこには、いかなるヒエラルキーもなく、静寂のざわめきの中でただひたすらにコスモスを結晶化させているのだ。

「石は凍れる音楽である」と言ったのは確かピタゴラスだったと思うが、その音楽とは聖霊たちが奏でる和声であり、幾何学の本質もこの和声にある。プラトンが掲げた「幾何学を知らざるもの、この門に入るべからず」というあの有名な言葉も、この意味においての幾何学である。言葉を超えて声の彼方へ——そして、コミュニカシオンの結晶地帯へ、、

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