アセンションを鼻で笑う人たちへ

量子系においては、運動量と位置、エネルギーと時間のように、その測定自体が互いに排他的であるような物理量の組が系全体の性質を特徴づけている。こうした組の由来はすべて奥行きと幅の直交関係に由来すると考えるといい。幅を見るときは奥行きを使い、奥行きを見るときは幅を使っているということ。
 
この関係が知覚に現れたものが、遠隔化と収縮、近接化と拡大の関係だろう。物体は近づくとその見えは大きくなり、遠ざかると反対に小さくなる。観測者が近づくと世界全体の見えが大きくなり、遠ざかると反対に小さくなる。これらは、この運動量・位置、エネルギー・時間の双対とおそらく深く関係する。
 
量子的事象の遠隔的相関はすべて持続(記憶)における相関であって、決して物理的空間における相関ではない。たとえば、「この腕時計は20歳の誕生日に父からプレゼントされたものだ」といったような場合、時空を隔てた腕時計の認識が一致している。量子はこうした再認のシステムとしても暗躍している。
 
量子系の状態を決して物理的物体でイメージしてはならない。それらは奥行き(持続空間)が作るわたしたちの内在性の仕組みが、幅世界(時空)において”収縮の中に現れたもの”であり、量子的粒子の本性は、すべて持続空間をベースに活動している理念的、形而上的な、いわば精神の力である。
 
「わたしたちの外部に巨大な宇宙がある」という旧態依然とした客観宇宙のゲシュタルトを、時代の精神自体が解体しにかかっていることにもっと敏感になろう。存在は今、人間に時空という場所からの意識の撤退を要請してきている。
 
「アセンション」というと、鼻で笑う人たちがほとんどだが、この移動は形而上的な無意識が顕在化してくるという意味では、高次元意識への次元上昇と言えないこともない。いざ波が来たときに慌てないためにも、「こういうことも起こりうるのだ」と、多少は柔らかい頭を持って備えておく方が賢明だろう。
 
スピノザ、シェリングが夢見た物質と精神の一致。自然世界と理念世界の相互関係を看破した二重認識。今では哲学者さえ見向きもしなくなった世界観だが、こうした全一的・有機的な存在論が常識として語られる日があと数十年もすればやってくると勝手に思っている。そうなれば人間は少しは変われるかも。
 
※下イラストはhttp://bokete.jp/odai/1900575よりお借りしました。