レミニサンスの場所としての奥行き

奥行きはありのままで無限小の世界であるといつも言ってるのだが、ここでいう無限小というのは決して微小な距離を意味するわけではない。それはもはや時間や空間で捉えられる場所ではないという意味だ。

ではそこはどのような場所なのかと尋ねられて、いつも「純粋持続が息づく場所だ」と答えているのだが、これがどうも分かりにくいらしい。そりゃそうだ。ベルクソンなんて今の時代、哲学に興味がある人間以外、誰も知らない。

何とかこの純粋持続の感覚をイメージ豊かに伝達できないものかいろいろと考えている。「心の中でずーと続いているように感じているもの」と平易に表現しても心理的な持続にしか解釈されないだろうし、無意思的記憶と言っても難解だろうし、記憶の容器と言っても通じないだろうし、ここクリアせんとね。

流れ行く時間を水平の時間と呼ぶとすれば、無意志的記憶の時間は垂直的時間と表現してもいいのではないかと思う。事実、この軸は時間軸にさえ直交していることだろう。水平方向に絶えず立ち現れては壊れていく現在を垂直方向にパイリングして現在を重層的に構成していく異空間の深みのようなもの。

わたしたちはたぶん眠りにおいてのみその深みにダイレクトに触れることができている。そこには時の流れの全記憶がコロイドのように乱交状態を作りながら記憶の容器の皮膚を刺激し、わたしたちを忘却から目覚めさせようとしているように感じる。

レミニサンスの場所としての奥行き。

「存在」と聞いたときは空間の広がりではなく、常に時間の深みのことを意識しよう。ここには過去形などといったものはない。時間の深みがただ永遠の現在としてある。その感覚を常に意識し続けることによって、徐々にレミニサンスの空間が開いてくる。

フォロワーのA氏からの質問——レミニサンスとはなんですか?

レミニサンス(reminiscence)というのは回想、追憶の意味ですが、哲学では「無意志的記憶」といった意味で使われます。無意志的記憶とは忘却されたイデア界の記憶、アイオーン(永遠世界)の記憶のようなもの。プラトンの想起説に基づいています。

レミニサンスに関してはプルーストのあの有名なマドレーヌ菓子の話があるのだけど、その話は感覚とアイオーンとの繋がりを語っている。たとえば、ふと立ち寄った小料理屋て食べた芋の煮物の味が生まれ育った故郷の思い出を突然フラッシュバックさせることがある。そのとき何とも言い知れぬ幸福感が漂う。

その幸福感を単に懐かしさに心が和んだ、といったような心理的なものとして捉えるのではなく、諸感覚の記憶同士が互いに分ちがたい関係を持って襞のようにして永遠の現在の中で繋がっている場所があり、その場所の出現が一時の至福感となって浮き上がってきたのだと捉えること。魂との接触。

それを幾何学的に彫塑したものが位置の統一化の場所としてのψ5に当たる。観点が球面化した空間。メモワールの器。奥行きがそういうものに見えてくれば、対象がつねに無限数の記憶の襞を陽炎のようにまとって息づいていることがイメージされてくるはずです。

魂と諸記憶とのこのような関係を物理学は「ボソンは同じ状態に無限個入ることができるが、 フェルミオンは同じ状態に 1 個しか入ることができない」などといった色気のない表現で語る。

素粒子に概念を孕ませなくてはならない。

facebookimg40