観察精神と肉体

交信記録19940205-3

骨の主成分がカルシウムなのはどうしてですか。
骨とは力の形成される方因をいい、次元の形成と関係があります。人間の骨格や関節は第一関与における方向性の構成を意味しています。

塩とは何ですか。
元止揚の働きの総体を表相に発露させる働きがあります。

赤血球の働きとは何ですか。
元止揚の働きを原子に変えていく力を持っています。次元を変換していく力の元です。

核にある鉄原子の働きは?
人間の意識における力そのものです。

葉緑素の働きは何ですか。
元止揚の中性質を持つ部分です。

■解説(長くなりそうなので数回にわたってやります)
 ヌーソロジーの考え方では、人間の肉体というものは「観察精神が中和を持った状態」として見なされる。「観察精神」というのは、「次元の対化を二回に渡って等化した精神」のことで、ここでいう「次元の対化」とは自己と他者における超越論的主観性そのもののことをいう。超越論的主観性というのは、分り易く言えば、人間というものは結局のところ生まれて死ぬまで一人であって、宇宙には実はわたししかいないのだと考えるときの「わたし」のことだ。世界をどう見ようと、結局は、それは「わたし」が考えているのであり、いかに共通了解としての客観を唱えたり、「すべては一つ」と言って愛を叫んだとしても、結局はそれらはすべてわたしが考えていることであり、わたしという主観によってしか表現できない。そういうどうしても逃れようのない主観性のことである。デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったときの「われ」と言い換えてもいいだろう。このような「われ」が現代人のわたしたち、いや、わたしの根底には生という名の下に巣食っている。

 そうした「わたし」にとって、他者という存在は絶対に接触不可能な彼岸である。それは死の向こうにあるものがわたしにとっては接触不能であるということと同じくらいに接触不可能な彼岸である。しかし、「わたし」はこのわたしの世界の中において、その接触不能な他者と擬似的に交わり、その他者によって名付けられ、社会の中に組み込まれ、「わたし」という存在を持ち得ている。この意味において他者とはわたしの起源も同然である。わたしをその根底で支える者でありながら、わたしは決してほんとうの他者には触れることはできない。他者とは父の幻像のようなものなのだ。こうした他者世界のことをOCOTはオリオンと呼ぶ。此岸としてのプレアデスと彼岸としてのオリオン。こうした関係がヌーソロジーのいう「次元の対化」と呼ぶものとイメージしてもらえばよい。

 では、わたしはどうすれば、ほんとうのあなたのもとへとわたしのほんとうの声を届けられるのか、わたしはどうすれば、あなたが見ている世界をあなたの眼差しを通して見つめることができるのか――わたしがあなたの立つその彼岸へと渡るには、わたしはわたしとあなたの間に介在している物質の垣根を超えていく必要がある。わたしとあなたの間には「創造」という名の永遠の距離があるのだ。一度、モノとなって死に、そして復活するときに、わたしはあなたとなって目覚めるのである。そして、もちろんこの「わたし」のあなたへの呼びかけはあなた側からの応答をも引き起こすことになるだろう。存在の声によって呼びかけられたものは、存在の声を以て「然り-Yes!」と答えなければならない。そこにresponsibility(応答する能力-責任)の真の意味がある。そこで行なわれる語らいこそが自他における真のつながりであり、存在の結び目としての物質そのものの意味なのだ。よってすべての倫理の起源は物質に淵源を持っているといえる。今、こうして目の前に無数の物質が存在するということは、そうした〈呼びかけ-受け答え〉のルートを辿った者たちがどこかに存在しているということでもあるのだ。これら物質の中に眠る聖霊たちを再び覚醒させ、この地上へと降臨させること。そして、存在の38度線とも言えるこの場所において「久しぶり」と言って互いに微笑み合いながら再会の抱擁を交わすこと。ヌーソロジーの目的はそこにしかない。

 位置の変換の開始――OCOT情報が伝えるには、こうした奇跡的な恩寵の光が2013年以降、この地上に降り注いでくるという。それがほんとうなのかうそなのかを詮索しても何も始まらない。その光を降り注がせるも遮断するも自分自身の行ないの問題である。なぜなら、この世界には「わたし」しか存在しないのであるから。ヌース用語で言えば、これは定質と性質の等化と呼ぶもののことである。ここでいう定質とは自我(超越論的主観性)を作り出したものの本源力のことであり、性質とは自我として働いている本源力のことと考えていい。そして、この定質と性質もまた自己と他者の間では定質=性質*、性質=定質*という例のキアスムのかたちによって構成されているのだ。

 定質と性質の等化とは別名、次元の交替化とも呼ばれる。つまり、定質と性質における性質を定質*へと生まれ返らせていき、同時にそのプロセスによって定質を性質*へと変化させていくこと。これが交替化の原理である。そして、この交替化を二度果たし終えた精神が先に挙げた観察精神と呼ぶものだ。その影が肉体であるのならば、人間の肉体とは「わたし」から「あなた」へと渡り、かつ、「あなた」から「わたし」へと渡って再帰してきたある崇高な精神の力によって作り出されたものであるということになる。ならば、人間の肉体を構成しているすべての器官、さらにはそれらの中で行なわれているすべての生化学的な反応の中には、この交替化の履歴がすべて映し出されていることになるだろう。わたしたちが意識と呼んでいるものはこの履歴が作り出している反響である。わたしの意識とあなたの意識がこの地上で交わるとき、当然、これら二つの履歴も交わり合い、そこに迷宮が生まる。社会という名の迷宮。善悪という名の迷路。平和という名の迷信。おそらく、肉体はこの地上で生きている限り、これらすべての迷いをも履歴の中に刻みこんでいる。OCOTは定質の対化が等化を行いつつ、かつ、意識(性質)の対化が等化されているときは肉体には病は存在しないと言っていた。その意味では,現在の肉体を蝕んでいる病気とは、存在の中におけるこの迷いの現れが肉体に投影されたものということができるのかもしれない。人間の世界における二人のわたしという存在自体が彼岸に存在する二人のあなたの病(やまい)なのである。

――つづく