元止揚空間を駆け抜けていく、虹の狼たち

ごくごく単純化して言うと、空間には三つのタイプがある。一つは対象を中心とした空間。二つ目が自己身体を中心とした空間。三つ目がそれら二つを等化している精神の空間だ。この三つの空間を識別できる知覚を生み出すことが、差し当たってヌーソロジーにおける「顕在化の作業」と呼んでいいだろう。
 
ヌーソロジーが「思形」と「感性」という言葉で区別しているのも、こうした空間の両極性だと思えばいい。思形は言葉と概念を働かせ、感性は知覚を働かせ、情動をも含み持っている。裏を返して言うなら、言葉と概念が働いていなければ、対象を中心とした空間は存在していない。(下図上参照)
 
感性は、赤ん坊がオギャーと生まれてきて知覚を通して世界に触れていく様子を思い浮かべるといい。赤ん坊の身体は「Ψ8(Φ14の凝縮化)」で用意される。そこから精神へと戻ろうとするのだが、ボタンの掛け違いが起こり、元止揚の外へと追い出され、精神と接してはいるものの、中に入ることはできない。
 
精神分析ではこのボタンの掛け違いを「原去勢」と呼んでいる。一方の思形の方が「去勢」、すなわち、象徴界(言葉の世界)への参入を意味している。内側の円で表される元止揚は哲学が言う物自体を意味するが、思形の登場によって物自体は完全に見失われ、思形と感性の反復のループで覆われてしまう。
 
物自体の世界から疎外された、こうした意識の放浪はこれだけでは終わらず、物自体を探し求めてΨ12~11(Ψ10~9が裏返った位相/他者の感性と思形の空間と考えるといい)領域まで続行されていく(煩雑になるので説明はしない)。
 
さて、問題は精神の空間だ。これは元止揚への侵入を果たしたときに出現する空間のことなのだが、これが、いつも話している純粋持続の空間のことだ。これは決して、身体が持った指向的空間でもなければ、ましてや、対象を原点とした物理的空間でもない。通常の時間と空間から完全に逃れた空間だ。
 
この空間は主観と客観を等化しているのだから知覚するものと知覚されるものの区別はない。見ること自体が物となるような世界だと考えるといい。この空間にアクセスするためには物質空間→身体空間→精神空間というように、通常の空間認識を二度、反転させなくてはいけない。図にするとこんな感じだ(下図下参照)。
 
この2度目の反転で現れてくるのが、例のキットカット実験が示す空間であり、奥行きを収縮と見るなら、あの空間は物自体の原初とも言える物質粒子そのものの姿になっている。
 
見るものと見られるものの区別は、もうそこにはない。
 
この領域へのアクセスのことをヌーソロジーでは「位置の等化」と呼ぶが、位置の等化によって今まで物質世界と思っていたものが一気にメタモルフォーゼを起こす。つまり、すべてが精神の様相だと気づくわけだ。ここから開始される新たな思考と感覚の世界が顕在化を切り開いていく変換人の世界になる。
 
元止揚空間を駆け抜けていく、虹の狼たち。

ケイブコンパスに見る対象空間と身体空間
精神空間へアクセスするための二度の反転