7月 10 2025
本来の自己視点を意識に浮上させるために
「意識の位置は無限遠点にある」という感覚を呼び起こすためのイメージトレーニングを書いておきます。
1.視野空間をモニター画面として意識してみる
世界は僕らの視野空間上に展開している。この視野空間をモニター画面のようなものとして見ることが必要。
モニター上には画像や映像が広がっていて、僕らはその中に「入り込む」ことはない。視点は常にモニターの外部にあり、僕らは画面の中のどこかに存在しているわけではなく、画面全体を「外から」見る位置にいる。
日常的な視覚体験もこれと同じで、僕らは3次元空間の中にいるというよりは、その 3次元空間全体をモニターのようにして、その外側から見ている。そのときの観察位置が無限遠点に当たる。
2.観測者の位置は不動である
この視野空間(高次のモニター画面)を見ている自分の位置、つまり観測者の位置は、物理的にどこかに動いたり変化したりするわけでは決してない。
映画館でスクリーンを見ている観客が座席を動かすことなく映画を観ているのと同じように、観測者の位置も本当は動いていないのだ。
視野空間の中で物体や景色が動いたり、時間が流れたりする一方で、観測者の位置そのものは不動で、むしろ、その時空間全体を外部からか捉えている。
3.自己視点は「無限遠点」にある
このように、一度、視野空間をモニターとして認識すると、観測者の位置が物理的な空間のどこにも属さず、むしろその外側に「無限遠点」として存在していることが直感的に理解できてくる。
僕らは、普段、さまざまな出来事を時空上でちらえているわけだが、その背後には、この時空というスクリーン全体を外部から捉えている、本来の視点があるわけだ。
この視点は絶対不動の位置として固定されており、時空には属さず、時空上でのすべての変化を不動の位置から観察していると考えられる。
自己視点とはそういうものです。
7月 11 2025
みんな、ヌーソロジーを学んでみよう!!
1.物質と精神、そして、他者視点と自己視点
私たちが日常的に「物質」として捉えているもの、つまり電子や陽子といった素粒子は、物理的に観測可能な存在だ。
現代物理学では、これらを宇宙の基本的な構成要素として理解しているが、ヌーソロジー的な視点では、それらは単なる物理的対象ではない。
むしろ、それらは他者視点を通して認識された外的時空というスクリーンに、自己視点の中に潜む内的持続の宇宙が投影されている状態だと言える。
言い換えると、私たちが「物質」と呼んでいるものは、自己の内包的な意識が他者の視点というフィルターを通して外延的に映し出された結果に過ぎない。
これは、プラトンの洞窟の壁に映し出される影と、それを生み出すイデアの関係に似ている。
自己の内なる世界が、他者視点を通したスクリーンに投影されることで、内なる精神が外的物質として私たちの目に現れているのだ。
2.「内包」と「外延」の変換を知ることが、存在論的認識の鍵
ヌーソロジーが訴えるのは、自己の意識が他者の視点を取り込み、その中で物質が現れるという、世界の物質化の原理である。
外延的な広がりとして見えるものは、他者の視点を通して捉えた結果であるが、内包的な視点から見ると、それは自己意識が他者の意識と一体化し、内側で展開しているものにすぎない。
これこそが、真の存在の世界である。
この変換のプロセスを理解することが、物質を新たな視点で捉え、存在論的な認識に到達するための鍵となる。
3.「外側にあるもの」という錯覚から抜け出せ!!
ヌーソロジーは、こうした空間認識の転換を強く訴えている。
私たちが「物質」を見るとき、それを単なる「外側にあるもの」として捉えるのではなく、自己の内包的な意識が他者視点を通じて外延空間へと投影された結果として理解することが重要である。
これが、新しい時代を切り拓くための認識の転換だ。
言い換えるなら、私たちが目にするすべての物質の背後には、自己の内包的な精神のエネルギーが隠されているということだ。
私たちは無意識のうちに、自己の内包性を外部の物質として投影し、それに執着することで、本来の自己の精神を見失っている。
この誤解を正し、物質を「外にある対象」としてだけでなく、自己の内包が外延的に映し出されたものとして理解することによって、私たちの空間認識は劇的に変わるだろう。
みんな、ヌーソロジーを学んでみよう。今の宇宙は、私たちが見誤った自己認識に基づいて作り上げた、ひとつの仮面のようなものだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0