Think totally different.

見えるもので見えないものを説明しようとするのではなく、
見えないもので見えるものを説明できるようになること。
奥行きの宇宙論とはそういうものだ。
 
これは先日話した「現象以前の一者とともにありながら、しかもそこに現象的多者を見る」という例の「双眼の士」の思考とも言える。
   
まず第一に「あるもの」を認識して、次にその根拠を考える―という思考ではダメなのだ。ヌース(創造的知性)は逆。自己の内的な位置に立ち、それが外にどう表現されているのかを考える。
  
実際、僕が経験したOCOT情報はすべてその文脈に沿っている。だからこそ得体の知れぬ異質性が漂っているわけだけどね。たとえば、元素については次のように語ってる。
  
●原子番号1 水素
・フタイ質がイチを持ち始める初めての反映
・進化の方向にある人間の思形の対化を等化に持っていく力と方向。
・イチの発露がタイカに交差する状態
 
●原子番号2 ヘリウム
・人間の意識における発露を持つものが発露を等化し、顕在化を内面に生み出すこと。変換作用。
  
何を言ってるかさっぱり分からないのではないかと思う。
僕も最初はそうだった。25年間の格闘の末、今なら少し解説ができる。
 
イチとは精神の位置といったような意味だ。彼らの世界では、精神がなければそこにはイチはない。
  
水素-ヘリウムの次元は「点球」とも呼ばれていて、それは僕らが日頃経験している物の象りとしての空間のことを意味している。言い換えるなら、触覚を通して感じる「かさばり」のことだ。
  
精神が自らの持続空間の中にこの物の象りの感覚を取り込む次元の知性への開示のことを「顕在化」と呼んでいると思えばいい。
 
OCOTによれば、人間の意識にはこの「顕在化」がまったく生まれていない。そりゃそうだ。持続空間という概念すらないのだから、精神の場所なんて思考のしようがない。
  
人間にはそうした精神の場所がまったく見えておらず、ただ漠然と物を知覚し、そこからアプリオリ(哲学でいうところの無意識の構成)によって自己意識を経験させられている。誰も自分で意識して自分になったわけじゃないからね。
 
OCOTは、そうした自己を組織化しているものが素粒子だと言ってる。元素は、その意味でいうなら、そのアプリオリとしての素粒子次元のもとになっているものだとも言える。
  
つまり、反転した世界では素粒子によって元素が作られているのではなく、元素によって素粒子が作られているってことだ。素粒子(人間の無意識)は精神の残響音のようなものとでも言いたげだ。そして、それは「―潜在的変換」でもある。宇宙が人間を「こっちだよ」と言って呼び戻している方向とでも言おうか。
  
だから、人間の知性が素粒子を実体として自らの持続の中で思考し、理解していくことができれば、そのプロセスがそのまま元素的なものへの生成へと繋がっていくってことになってくる。
 
このあたりは、ハイデガーなんかが言ってる「存在=アレーテイア(真理)」をおそろしいほどに詳細に語ってくれている感じだな・・・。
  
SFとして聴いても、最高に面白い話だと思うよ。
 
宇宙はトンデモないものなのだから、トンデモない発想をしないと、そりゃわからんよ。

奥行きの宇宙論