5月 24 2017
赤い靴はやっぱりデンジャラスだというお話
世界の趨勢は “物質的量子化” とも呼んでいいような、正体不明の不透明な領域に突入し始めている。デジタルテクノロジーが生み出す、いわゆる人工知能、VR、AR、ゲノム編集といった次世代テクノロジーによる人間世界の変形のことだ。
経済界、産業界は言うまでもなく、行政、教育、医療、文化、娯楽に至るまで、とにかく、社会システムの隅々に至るまで、この量子テクノロジーの侵食が物凄い速度で進んでいっている。
まぁ、これらすべてが資本の為せる業と言ってもいいわけだけど、資本というものが社会に一切無関心だということだけは頭に入れておいた方がいい。特に僕ら日本人はフクシマの事故で十分に思い知らされているからね。
ドゥルーズ=ガタリ曰く、資本は人間の意識が作り出したものではなく、人間の無意識の欲動が生み出したもの。もし、彼らの言うことが正しければ、この資本の成長をストップさせることができるものなど人間の意識の中には存在していない。宗教? 無理。哲学? 無理。哲学も、もはやデジタルヒューマン派の婢女と化しているしね。
良い、悪いは別として、 いずれにしろ、この “物質的量子化” への歩みは、人間を今までとは全く違ったものへと変形していくに違いない。それが時代的なものと言っていいのだろう。
しかし、宇宙が “何らかの全体” に自らを回収することは決してない。要は、その反対側に “霊的量子化” という路線もあるはず。まぁ、まだ誰もそのビジョンを作れていないわけだけど。。
ヌーソロジーが作りたいのはこの “霊的量子化” 的な人間の変形なわけだね。僕が反時代的と呼んでいるものもこの変形への働きかけのこと。
このまま時代的なものへと一方的に呑み込まれていくのではなくて、「オマエは赤いカプセルを飲むのか、青いカプセルを飲むのか」―そういったオルタナティブぐらいは提出してくれよ、ねぇ~、神さま。ってヤツなの。
物質的量子化と霊的量子化というのは、垂直性における二つの方向だと思うといい。これらは時の必然として出てきている。ジジェク/ドゥルーズの対比で言うなら、身体なき器官VS器官なき身体のようなもの。どちらも未知という意味で不気味なものではあるわけだけど、どちらがより不気味かは、まぁ、心ある人間なら直感で分かるわさ。
一つだけはっきり言えることは、物質的量子化は霊的量子化の反映物だということ。人間の歴史意識は常に反映側が先行する運命にあるので、今の世の中こういう具合になっていっている、と思えばいい。まもなく、霊的量子化の世界も開いてくると思うから、人類の未来を正確に予想したいなら、それからだね。
あっちかな~、こっちかな~?
さて、鬼さん、どこでしょう?
絶対に見つからない、とっておきの場所を発見!!
赤鬼さんに誘導されるんじゃなくて、逆に誘導してあげないとね。「奥行き」に潜り込んで、グルグルかくれんぼ。こんな感じで時代的なものに対するレジスタンスをやれると最高なんだけどね^^。
Catch Me If You Can !!♪
SUMETAL曰く………赤い靴は、やっぱりdangerousなんだって。
5月 29 2017
詩人の絶滅
人は通常、言葉でコミュニケーションしていると言われますが、バベルの塔の逸話宜しく、言葉がコミュニケーションを破壊しているというのも事実です。言葉が持ったこうした両義牲は、言葉が世界の終わりと始まりとの結節に深く関わっていることが関係しているのではないかと考えています。
ここでいう「終わり」と「始まり」に被せてイメージしているのは、記号論でいうなら、シニフィアン/シニフェ、シニフェ/シニフィアンといった双対のイメージになります。物質に従属した言葉か、それから離れて色彩や形態の中に新たな欲動を与えられた言葉とでもいうのでしょうか。要は詩の言葉です。
詩人においては、記号から意味が発せられてくるというより、むしろ、そういった出来合いの意味(シニフェ)を反故にして、知覚に出現している色彩や形姿の中に立ち上がってくる剥き出しの情動から逆に言葉が紡がれてきます。最初っから、シニフィアンとシニフェの勢力関係が一般人とは逆になっている。
記号→与えられた意味というように、概念から発される言葉は、絶えず生成変化していく意味の多様な運動やふくよかさを固定的で痩せ細った死の言語へと変換させていくようなところがありますね。
情動の響きという意味で、言葉は意味というよりは、まずは声としてイメージされることが必要だと思います。「声」なわけですから、ここには必ず呼びかける相手が存在していますし、自分もまた応答者であるわけですから、声を聞き取る能力が必要とされてくるわけです。
こうした「声」が行き来している空間は決して物理的な空間ではありません。むしろそれはいつも言っている奥行きが作り出している持続の空間であり、声や聴覚といったもの自体、わたしとあなたの持続が重なり合う空間の中で生成してくるものなのです。
「言葉の重み」という表現がありますよね。この表現は言葉が質量と関係していることを彷彿とさせます。平坦な空間で語られる言葉には重みがありません。それは呼びかけることも忘れていますし、ましてや応答の用意もしていない言葉です。こうした言葉を「時空の言葉」と呼んでいいと思います。
質量とは自他の持続空間を等化したところに出現してくる精神が持った力です。これは物理学的にいうなら、カイラル対称性の破れ(右巻き、左巻きの区別がつかなくなる)や、二度の超対称性変換(ボゾン→フェルミオン→ボゾン)などとも深く関係していると思われます。
時空が質量によって歪曲するように、時空の言葉はその言葉の起源である等化された自他持続の重なり(これを重力と呼んでもいいと思います)によって、曲げられ、絶えずズラされて行きます。言葉や意味といったものが絶えず変化していくのも、元はと言えば、この時空と重力の場所の違いからくるものなのではないかと考えています。
物(知覚)と言葉は一つの精神的存在の光(始まり)と影(終わり)のような関係にあるということです。
ですから、言葉を受け取っているときは影を受け取り、物を受け取っているときは光を受け取っていると言えるのかもしれません。他者と自己という関係は本来、そういう関係の中に浮き上がっています。両者を同じ場所に存在するものと理解している限り、自己と他者が出会うことは永遠にないと思います。
ここまで話せば、詩人がなぜ意味を逆なでするようにして言葉を紡ぐのか、その理由が分かるのではないかと思います。そして、その詩人が絶滅つつあるというのが、今の世界の現状なんですね。
※下イラストは以下のサイトから借用させていただきました。
http://dromer.tumblr.com/image/71125873117
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0