9月 12 2018
付帯質先行の力を減衰させていくために
付帯質先行の力を減衰させていくためには、物理学的世界観が作り出している世界幻想を、物理学に内在する論理を使って一つ一つ消していくことが必要だ。
たとえば、素粒子は複素空間で記述される。しかし、素粒子とは本来、人間が他者構造によって時空側を世界と見なしたがために、そのズレを是正する変換性として出現しているものにすぎない。人間がその是正に意識的になれれば素粒子は存在の意義を失う。
つまり、不要なものとも言える。だから、世界は素粒子でできているわけではない。ハイデガーの言葉でいうなら、素粒子とは、被投性としての存在者の領域と、存在へと方向づけられた現存在の領域(被投的企投)が表現されているものだということ。どちらも、被投性の産物であり、存在そのものの領域ではない。存在自体は元素に反映されている。
つまり、素粒子の世界とは人間の意識の内面と外面の構成が、時空に表現されたものだということだ。内面(中和系)がボゾン。外面(等化系)がフェルミオン。ケイブコンパスで表現するとこんな感じになる(下図上参照)。
精神の対化間(自他)における空間の捻れ(相互反転性)が見えていないのがボゾン。見えているのがフェルミオン。そのそれぞれのカタチの違いがスピン1(整数)とスピン1/2(半整数)という各粒子の性質の違いに反映されている。幅認識の支配がボゾン、奥行き認識の支配がフェルミオンという解釈でもよい。奥行き認識が作り出している空間の方は人間のアプリオリとして無意識化している。奥行き認識は無限遠点を持っているので、空間の捻れを了解しているということ。
無限遠点は精神の連続性を担保しているものでもある。観察位置が無限遠点ということ見出さない限り、精神の連続性(存在の一義性)が思考に上がることはない。言い換えれば、無限遠点=観察位置の覚知は永遠回帰の絶対的条件であるということ。
奇妙な言い回しになるが、無限遠点に観察位置を見出すことによって、時空はコンパクト化を果たし、人間の空間認識は内部空間に移行する。全く住む場所が変わるということ。主客一致の空間にワープするということ。ミクロ系が世界になるということ。死が持続に姿を変えて現れ始めるということ。
空間のコンパクト化と観察位置の関係についてはシュタヌー本では下のような図で示した。直線は観察位置を取り込むと円環になる。観察方向は射影線となり実数では表現できず、虚数軸となる(下図下参照)。
知覚正面そのものの絶対的不動性(視野空間をモニターとして見た空間)は、この虚軸によって担保されている(時空内には存在していないということ)。
わたしたちは、本当は物の中にいて、他者構造(奥行きの幅化)を使って物の外を作り出し、物の中から、肉体と物を見ている―それが意識的真実。
付帯質先行の力の減衰はすでに始まっている。
11月 16 2018
三種の神器における「たま」について
後ろ(見られている空間)で世界を見てしまうと、本来の前が内部化して、物の基盤である物質粒子となって現れる―数学的にこの仕組みをストレートに表しているのがケーリー変換というやつだと思ってる(下画像はhttps://www.slideshare.net/yutohorikawa/cayley-57826500より借用)。
自他においては前後が逆なので、当然、こうした変換が二組考えられ(内部/外部が逆になる)、それらを等化するところにSU(2)やSL(2.C)という群が作用している、って感じだね。それによって、空間の外部と内部を差異化させる「物」とともに時間と空間を作り出されてくる。次元観察子Ψ9~10表示のケイブコンパスはこのプロセスに至るまでの知覚空間の階層秩序を表現している。
そういえば、この内部/外部の分離問題に対して、OCOT情報が「それは三種の神器における『たま』のこと」と言っていたのが面白い。こんな感じだ。
三種の神器とは?
玉とは転換のこと。
転換を持つものすべて。
剣とは対化のこと。
カガミとは精神の方向性のこと。
精神が反映を持つこと。
新しく次元が生み出されるときがカガミ。
ここで言っている「転換」とはヌーソロジーでいう「位置の転換」という概念のことで、次元観察子Ψ8の領域に対応している。さっき紹介したケーリー変換が立体化して球体とその外部が生まれる場所のようなものだ。物の顕現と言っていいだろう。まさに「玉」の出現だ。
この辺りのOCOT情報は、中沢新一氏なんかが言ってる、日本古来の「たま」の思想との親和性を感じさせる。OCOT情報の実際は、それより遥かにハイパーだけどね。
「モノ」と「タマ」
確か、中沢氏も「ものとの同盟」という論考の中でハイデガーに触れていたと思うけど、ハイデガーの「性起(エルアイグネス)」における〈時-空〉という概念も、この仕組みに近い。つまり―それをそれ自身のほうから現れてくるとおりに、それ自身のほうから見えるようにする―ということ。
一度、中に入って外に出てくるような認識を作らないと、外のことなんて分からないんだよ。科学的思考はそのあたりのことを全く押さえていないものだから、世界を無茶苦茶にしてしまう。向かうべきは外じゃなくて内。外についても内側から語ることのできる内なる知性(ヌース)を作って行かないと。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, ケイブコンパス, ハイデガー, 中沢新一