7月 9 2005
プタハの結び目
今日、甥っ子から来たメールの返事を書いているときに、話題がたまたま建築の話に及んだので、久しぶりにプタハ神のことを思い出した。プタハ神とは古代上エジプトの建築神のことだ。当然、ここでいう建築神とは宇宙の創造神のことを指す。あのフリーメースンが建築の神として崇拝していたのも、このプタハである。
プタハはいかにして宇宙を創造したのか。逸話では、それは「最初にトートによる音声があったからだ」という。トートの音声を物体である宇宙に結び付けたのがプタハであったとされる。その意味で言えば、存在は光というよりも声から始まったということになるのかもしれない。プタハが目覚めるとトートは眠りに入り、逆にトートが覚醒すればプタハは影を潜める、そういった役割分担が宇宙の摂理として存在するのだろう。
トートとプタハの関係は、以前、ヌースレクチャーでもよく紹介していた「プタハの結び目」という象徴によって文字通り一つに結びつけられる。二重に結われたこの結び目は、結び目の中央に6回の螺旋状の巻きを作り、それらを束ねた全体を含めると「7」で完結させられている。古代エジプト人たちは、この結び目における二重性をこの世とあの世の架橋と考え、ここにできる結び目自体を神の世と人の世とを一つにする力の備わる場所と考えていた。結び目自体はまた、人間の個体性と深い関わり合いを持っている。事実、古代エジプトのヒエログリフでは、紐の結び目は人の名前を表した。古神道風に言えば、本霊(モトミタマ)と分霊(ワケミタマ)の重なり合いの場といったところなのだろうか。結び=産霊(結び)。13霊結びの奥義。。。カバラでいうところの至高神(ケテル)=身体(マルクト)という思想がここにも垣間みられるわけだ。例の異端のエジプト学者シュヴァレ・ド・ルービッチの言葉を借りるならば、人間の身体とは「神の神殿」であるということにもなるのだろう。
プタハが宇宙の創造を終えたあと、音声の神としてトートが再帰する。プタハとトート。これら二つの神は創造の終わりと、その創造のあとを引き受ける者の関係を表すと考えていい。すなわち、人間の身体と言葉のことである。トートは人間を名付けたあと、今度は人間に主体の座を明け渡す。つまり、プタハもトートも共に隠れ神となるのだ。主体とは名付ける者の異名でもあるから、今度は人間がトートの代理として主体を装い、世界を言葉の力によって治めることになる。しかし、この名付けはすべてプタハの遺産あってのものであるから、その意味でいうならば、世界への名付けの音声とは創造の反響音のようなものである。
形象の類似性から見て、プタハの結び目はギリシア文字の「Ω(オメガ)」のルーツとも言えるだろう。よって、それは創造の完成の象徴ともなるが、そこには再びトートの魔術が支配する世界が訪れている。それは新たなαが始まるまでの言葉と光の間の性愛期とも言える。プタハはまもなく登場してくることだろう。音声をカタチにするために。
7月 11 2005
複素2次元空間
最近のわたしのマイブームは先日も書いた通り「虚数空間」である。ここ数週間というもの、そのことばかりが気になって目の前にはいつも「i」の文字がチカチカと点滅している。どうしてそんなに虚空間に固執するのか。その理由はほかでもない。視野空間を複素空間に結びつけるロジックをどうしても作りたいがためだ。ヌースをことさら難解な体系にする気など毛頭ないのだが、わたしたちの知覚野そのものが素粒子の内部にある、というヌースが持ったドラスティックな反転論に一定のコンセンサスが得られるようにするためには、通過儀礼としてこの虚数空間のナゾを解く必要がある。
虚数空間とは何か——先だっての「スターピープル」の原稿にはいろいろな理由をこじつけて「それは奥行きである」と書いた。例の交合円錐の空間がそれだ。しかし、論証はまだまだ不十分だ。わたしたちは三次元空間を先験的なものとして受け入れているが、世界をあるがままに見たとき空間は3次元ではなく2次元である。奥行きは「見えない」という意味で、文字通り虚的なものでしかあり見えない。奥行きは、普通はコンピュータビジョンで取り扱われているように、二次元の射影空間として片付けてられてしまう。しかし、それだと空間の三次元を前提としていることになる。話はどうどう巡りである。赤ん坊が見る空間は果たして射影平面かというと、そうじゃなかろうと思うのだ。もっと原型的な空間なはずだ。三次元は他者との奥行きの交換によって後天的に成立するもので、先天的にそんなものは存在しない。奥行きはその意味で極めて心理学的な方向が絡んでいる。眼前に他者の眼差しがなけれなければ空間の三次元性は生まれ得ないだろう。赤ん坊の中では三次元は醸造中であって、まだ、それ以前の段階である。そうした原形質のようなグニャグニャした空間。。そこに虚が暗躍しているのだ。
奥行きには二つのタイプがある。対象の背後と対象の手前、これらは全く意味合いが違う。当たり前の話だが対象の背後は見えない。つまり想像的なものである。対象の手前は見える。こちらは現実的なものである。おそらく、この〈想像的/現実的〉という対立関係が、虚数空間のプラスとマイナスの二つの方向に深く関係している。当然、自他においてはこの関係が逆転しているので、それらを総合して考えると、どうしても上図に示したように複素2次元としての空間のイメージが立ち上がってくるのだ。複素2次元とは複素平面が二枚直交して組み上がる空間である。左右・上下という実の二次元が鏡として前面に用意され、奥行きという虚の二次元が自他の眼差しが交差し合う二本の虚軸として出現する。これが原型的空間の在り方に違いない。これは、いわゆるヌースの言葉でいう「元止揚」空間である。二本の虚軸は無限の映り込み合いを行うために、結果、無限次元の空間を提供してくる。この無限次元の空間が意識の回廊としてのケイブである。実存世界はその意味で2次元+∞次元として構成されているはずだ。
物理学的に見ても虚数軸のプラスとマイナスの方向は世界の創造と被造に深く関わっていると推測できる。これは実時間と虚時間という二つの時間軸の関係でもある。先日書いたトートとプタハの勢力関係もこの軸と無縁ではないだろう。物理学では時間tを虚時間Itに置き換えるウィック変換という数学的操作がある。この変換によって4次元時空は4次元空間へと変換できる。つまり、内面世界である4次元時空はこのIを-iに変換することによって、外面の4次元空間へと姿を変えることができるのだ。このひっくり返りは、物理学者たちが言っているように、世界を一気にアルケー(始源)へと運ぶ。それは永遠回帰が「今、ここ」に巡ってくるということでもある。
古きアイオーンの「はじめ」が天地の出現であったということは、それは実の時間の始まりとも呼べるものだろう。しかし、新しきアイオーンの「はじめ」は、虚時間の始まりを意味する。それは言い換えれば天地の創造の時間である。十字架から丸十字へと眼差しを反転させること。奥行きに福音の鐘を響き渡らせること。新しいアイオーン(時代)の開始を告げるラッパの音をそこかしこに響きわたらせること。それがヌースに託された使命だ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: アイオーン, 素粒子, 複素2次元空間