10月 3 2024
人間をアルケーにおける光とみなす方法について
他者の視線から完全に解き放たれたとき、
透明な無の身体が姿を現す。
時間を自らの体に蛇のように巻きつけ、
永遠を生きる死の身体が。
十字架の骨格を持つインマヌエルの身体。
原初に光として生まれし者。
【解説】
人間の肉体はOCOT情報では「重心」と呼ばれる。
「重心」とは変換の中点という意味を持っており、ここでいう変換とは、付帯質の外面から内面への変換、普通に言えば、物の外部性から物の内部性への意識の変換という意味だ。
つまり、肉体とは意識を物の外部(延長)から物の内部へと変換する蝶番となるような位置に構成されている組織で、この位置のことを「重心」と呼んでいるわけだ。
物の外部性を外としての時空で、物の内部性を内包としての複素空間と考えると、肉体はこれら両者の境界に構成されているものということになる。
サロンでは、時空側を取り去ったとき(完全な主観)の肉体の位置についての解説から入った(下図)。
そこで複素1次元空間上の単位円(U(1)円)というものが登場してきたと思う。そして、結果として、この単位円における回転がゲージ場としての電磁場を生み出しているという話になったと思う。
このときの電磁場とはガンマー線に対応するのだが、OCOT情報ではこのガンマー線のことを「重心の定化を行うもの」とも言っている。
つまりは、ガンマー線はミクロ領域で直線的時空を円へと変換しており、その中心に重心を固定させるものとして働いている——といったような意味なのだろう。人間が「原初の光」でもあるのは、そのような理由による。
そこにおいて、重心は自らそのU(1)円を反転させ、付帯質の内面、つまりは、原初の物の位置と非局所的に接続する。光による最初の創造がそこで起こっているわけだ。
物理学的に言えば、光子からクォークが生まれ出てくる場所がここにある。





11月 25 2025
語りの主体は空間へと・・・
私たちは今、この瞬間にこそ、言葉を通して世界を見ているという「慣れ親しんだ知覚の構図」を、静かに、しかし確かな決意をもって、反転させなければならない。
もはや、言葉で世界を“意味づける”ことではなく、空間そのものが、私たちの知覚を通じて“語りはじめる”ことが求められている。この反転の地点こそが、ヌーソロジーが名づけるところの「空間構文」の領域というものである。
この空間構文は、哲学が長きにわたり模索してきた「超越論的意識」と深く共鳴している。カントやフッサール、メルロ=ポンティが言う「経験以前の条件」──すなわち、意識が世界を経験するための“場”や“地盤”を探ってきた営みと、空間構文はほとんど同じ射程にある。
しかし、ヌーソロジーの空間構文には、哲学的超越論とは根本的に異なる特徴がある。それは、言語と知覚の関係を、単なる主体-対象の関係として捉えるのではなく、自己と他者という二重の内在構造として再編成し、その関係そのものを“空間的な幾何学”として記述していこうとする姿勢だ。
つまり、空間構文とは、「世界が今のようにある」以前に──私たちが“どこにいて”、誰の“中”に存在しており、その空間がどのように折り重なり、どのようにして差異を保持し、他者と交差しているのかを、純粋な構文として浮かび上がらせるための建築行為なのである。
しかも、ヌーソロジーはこの幾何学的な空間構文に、さらに物質の“火”を注ぎ込む。それは、この空間構文の幾何に、素粒子構造──つまり、クォーク、レプトン、ゲージ対称性といった物理的基底の秩序を重ね合わせていくことで、空間そのものに発火(ignition)や発振(oscillation)を起こさせる、というものだ。
そのとき、空間はもはや“背景”ではなくなる。言葉の舞台ではなく、言葉の“発生源”となる。そして私たちが生きるこの世界は、語りうるものではなく、“語り出すもの”そのものになるだろう。
空間が語り——
空間が歌い——
空間が踊る——
世界とは本来、そのようなものでなければいけない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: カント, クォーク, ゲージ対称性, フッサール, メルロ=ポンティ, レプトン, 空間構文