7月 1 2008
時間と別れるための50の方法(17)
●4次元時空と4次元空間
ゲージ理論研究者の砂子岳彦氏との共著『光の箱舟』でも紹介しましたが、19世紀末から20世紀初頭、欧米では、あまりにガチガチな近代合理主義に反発して、再び霊性運動の波がカウンターとして押し寄せてきます。フランスではエリファス・レヴィがカバラや錬金術の研究と実践を通して魔術を復興させ、心霊研究の本場イギリスでは、マクレガー・メイザースが秘密結社ゴールデン・ドーンを設立し、カバラ的世界観の復興に尽力します。アメリカではブラヴァツキー夫人が神智学協会を設立、その流れからシュタイナー、クリシュムナルティーといった20世紀を代表する神秘思想家たちが現れてきます。もちろん、中にはアレイスター・クローリーやトゥーレ協会(ナチスの母胎となったドイツの団体)などといった関心できない連中もたくさん出てきますが、とにかく、19世紀末〜20世紀初頭という時代は善くも悪くも世界的に霊性運動が異常なほど高まった時代でもありました
。
こうした流れとほぼ並行して、人間の霊的世界を近代科学と何とか統合できないものか、いわば、ニューサイエンスの先駆けのような思想の流れが出てきます。それらは当時、4次元思想(超空間哲学)と呼ばれ、その代表にはアボットやヒントン(イギリス)やブラグドン(アメリカ)、ウスペンスキー(ロシア)などがいます。4次元思想(超空間哲学)は人間の魂の住処を4次元の空間に求め、今まで宗教や神秘主義しか立ち入れなかった霊的な世界を数学的、科学的に探求していこうとするものでした。この思想運動は全世界に熱狂的な「4次元ブーム」を巻き起こし、一般大衆だけではなく、キュビズムやロシア・アヴァンギャルドといった芸術運動、ドストエフスキー、ポーといった文学者たち、さらにはベルクソンなどの哲学者にも影響を与えたと言われています。4次元に関する論文を懸賞金付きで募集する大手の出版社さえあったほどです。
しかし、こうした4次元プームの盛り上がりも一人の大天才の登場によって軌道修正を余儀なくされてしまいます。アインシュタインです。アインシュタインは第四の次元を空間ではなく時間とし、4次元時空の概念を特殊相対性理論の中で提出してきます。この考え方は当時の物理学に一大センセーションを巻き起こし、その余波は一般大衆にも瞬く間に広がりました。結果的に、このアインシュタインの登場によって、人間の霊性の住処=4次元空間という4次元思想家たちの主張は木っ端みじんに吹き飛ばされ、「第4の次元は時間である」という分ったような分らないような奇妙な言説だけがモダニズムの世界を覆い尽くしてしまったのです。ふむふむ。世界は確かに空間3次元と時間1次元で成り立っている。。。アインシュタインはその意味で言えば、近代唯物論を現代唯物論へと導いた理論的中心者とも言えます。
さて、問題はここです。
20世紀のあの時代、人々は何故に4次元空間ではなく4次元時空を選択したのか――。
ヌース理論から見ると、人類が20世紀初頭に経験したこの意識的遷移には無意識構造に仕掛けられた巧妙なトラップを見て取ることができます。その仕掛けの解説はあとに譲るとして、まずは4次元空間と4次元時空とは一体何が違うのか物理学的に見てみることにしましょう。おそらく、皆さんにも徐々にヌースの目論みが見えてくるはずです。
まず、一般に4次元世界と言ったときに、4次元時空(ミンコフスキー空間)と4次元空間(ユークリツド空間)という二つの違った4次元世界があるということです。4次元時空は相対論に登場する空間3次元+時間1次元としての4次元で、一方の4次元空間とは純粋に空間だけの4次元です。
『人神/アドバンスト・エディション』の脚注部分にも書いたように、4次元ユークリッド空間と4次元ミンコフスキー時空の違いは、4次元計量の符号の違いという一言で表現できるものです。計量とは簡単に言えばどうやって長さを測るかを決めるモノサシのことです。たとえば、2次元ユークリッド空間の計量は次のようなピタゴラスの定理の式で与えられます(実際には計量は行列式で表されますが、ここでは正確な数学的説明は省きます)。
Δs^2 = Δx^2 + Δy^2(Δは微小の意)
同様に3次元ユークリッド空間の計量は、
Δs^2 = Δx^2 + Δy^2 + Δz^2
4次元ユークリッド空間の計量は、
Δs^2 = Δx^2 + Δy^2 + Δz^2 + Δw^2
となります。
これに対して、4次元時空(ミンコフスキー時空)の計量は、
Δs^2 = Δx^2 + Δy^2 + Δz^2-c^2・Δt^2
というように、4番目の次元の時間の項の符号が「-」になっているのが分ります。
要は、4次元空間と4次元時空では第4の次元の基底の方向性が反転しているわけです。
ヌース理論というのは「意識の反転」をキャッチ・コピーに挙げ、意識が反転した世界では一体宇宙はどのように見えてくるかを、詳細にビジュアライズしていく理論なのですが、物理学的に表現するとすれば、まさにここで挙げた、4次元時空認識から、4次元空間認識への反転が意識の反転そのものの侵入口となってきます。——つづく
7月 24 2008
時間と別れるための50の方法(22)
●持続、記憶、イマージュ
次元観察子ψ3………対象の背景方向で同一視され、ペッタンコにされた奥行きという名の方向性。それはヌース的思考のもとでは3次元空間から垂直に立ち上がる4次元方向の軸を意味するものになります。その領域は見るもの(主体)も含む場所であるとポンティは結論づけたわけですが、これは一体どういう意味なのでしょうか。
たとえば目の前にモノがあるという状況について考えてみます。僕らは日常、単純にそこにコップがある、とか、灰皿があるとか、口にします。物質というものが客観的な外在世界に存在しており、そこに光が当たり、その光の反射が目に入ってきて、網膜がその像を写し取り、その信号が脳に送られ、脳内のどこかでその像が再構成される。それがモノが見えるということの一般的な説明です。人間型ゲシュタルトではそう考えることが習慣のようになっていて、学校でもそう教えるものですから、ほとんどの人がこの常識を疑いません。
しかし、見えるもの(客体)と見るもの(主体)の関係を単に空間的な配位の中で考えるのではなく、時間的配位の中で考えてみるとどうなるでしょう。これは今まで見てきた次元観察子ψ3~ψ4の構造を念頭に置いて、モノが目の前にある、とはどういうことかを考えることと同意です。別の言い方をすれば、相互に反転した4次元軸の介入を仮定して主体と客体の関係性を考えてみたらどうか、ということです。一方ですべての時間を包摂した無時間の場所があって、他方で、その無時間を秩序立て直して、時間があたかも未来からやってきては過去へと流れていくように見せかけている場所がある。ひょっとして、僕らが主体と客体という形で概念化している世界の有り様の二つの側面は、この4次元の相互反関係に由来しているのではないかと考えてみるのです。
僕自身、このψ3とψ4の構造が見え出したときに、主客関係を時間の問題(ヌース的には4次元の方向性の問題ということになります。つまり、人間の外面か内面かということ。)として捉え直そうとした哲学者がいなかったかいろいろと調べてみました。すると、いないどころか、哲学史に燦然と輝く天才思想家がそれに挑んでいたのです。アンリ・ベルクソンです。ベルクソンは主客問題を時間的側面から乗り越えようとした最初の哲学者だと言っていいと思います。
ベルクソンは時間には二通りの時間があると言います。一つは時計の針で計られるような物理的時間。もう一つは実際に生ある人間が感じ取っている本当の時間。心理学的時間と呼んでもいいのかな(ベルクソンはこちらの時間を「持続」と呼びます)。物理的時間は過ぎ行く時間の瞬間、瞬間を点のように描像し(実際、物理学では瞬間性を点時刻として扱います)、時間の流れを点の連続的集合性として線的に捉えます(時間軸tというのがその典型です)。ベルクソンはこうした物理的時間の在り方を「空間化した時間」と呼んで、本当の時間(持続)を隠蔽しているかさぶたのようなものとして批判します。
物理的な時間のもとで物質という存在について考えてみましょう。僕らは単純に3次元的かさばりを持った物質が外在世界に存在しているものとして考えますが、このとき、外在世界と呼んでいるものは時空ということになります。そこでは、刻一刻と時間が流れ、訪れる一瞬一瞬があっと言う間に過去へと収納されていっています。こうした時間の奔流の中で「物資が存在している」と言うのはちょっとナンセンスかもしれません。なぜなら、「存在している」という形容自体が幾ばくかの時間的経過を含んでいるものと考えられるからです。物質が時間と無関係にある、ということを証明するためには瞬間性における物質の存在を明らかにしなければならなくなるわけですが、瞬間としての現在を意識が把握するのは全く持って不可能です。今・現在という瞬間性を意識が対象化したときには、それはもうすでに過去のものになってしまっており、点時刻としての瞬間性、現在性は、ある意味、意識の盲点とも呼べるような把握不能な存在なのです。
そこでベルクソンは大胆に言い放ちます。「物質とは記憶である」と。いいですねぇ~。カッコいいです。僕らが「そこに灰皿がある」というとき、その物質は単に現在の灰皿の姿だけが立ち表れているのではなく、その背景に、1秒前の灰皿、1時間前の灰皿、1ケ月前の灰皿、一年前の灰皿というように、その灰皿の履歴が彗星の尾っぽのようにたなびいている、というわけです。このたなびきがベルクソンが持続と呼ぶものと考えていいと思います。その意味では持続とは記憶と言い換えていいのかもしれません。
言われて見ればその通りです。僕が目の前の灰皿を認識するとき、単に、モノとしての灰皿だけがあるわけじゃありません。そこにはその灰皿に対する様々な僕の思いが付着しています。単純なところで言えば、〜昨日もここに灰皿があった。そして、相も変わらず今も同じところに灰皿がある〜だから、「ここに灰皿がある」という継続を含んだ言い方になるわけですし、一ヶ月前はこの灰皿を見ながら「タバコ止めたほうがいいかなぁ」なんて殊勝な心持ちにもなった。でも、食後の一服が引き起こすあの快楽の誘惑に耐えきれず、結局、「タバコ最高!!」といいながら、その灰皿に再度、灰をポンポンと落とした自分がいた。。「僕の前に物質として灰皿が存在する」ということは、こうした見るもの側の物語の継続と同じ意味を持っているわけです。そして、その物語をたなびかせながら、今もまた、ここに、こうして灰皿がある。。
このような思考を含んだ視線で捉えられた灰皿は、単に僕らが客観的実在世界にポンと放置された物質としての灰皿とは全くニュアンスが違うものであることが分ります。同時に、それは意識が単に表象として再構成しているような灰皿でもありません。それは生きている事物と呼んでもいいような何かであり、単なる物質でも単なる観念でもないような何物かです。ベルクソンはこうした何物かのことを事物や表象とは区別して「イマージュ」と呼びます。きれいですねぇ~。イマージュ。ベルクソンが「物質とは記憶である」と言うとき、物質はこうしたイマージュとして見なされているのです。そして、このイマージュはベルクソンの中ではもはや客体としての対象ではなく、見るもの、つまり、主体の活動を含んだ精神の働きとして解釈されていくことになります。――つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 3 • Tags: イマージュ, ベルクソン, 人間型ゲシュタルト, 内面と外面