4月 15 2025
西田の場所論と量子論は統合可能
西田の場所論とヌーソロジーの関係をさらに深掘りしてみます。
ある判断が現実に当てはまるためには、現実における経験の積み重ねが必要となる。経験の積み重ねは、当然、無数の判断の積み重ねを伴う。 ということは、意識においては一般者の自己限定が無数起こっているということを意味している。
つまり、具体的な事実経験にもとづいて、数多くの述語が持続空間内に過去の痕跡として蓄積されていると言うことになる。そのような具体的な事実経験によって意識された述語群が、具体的一般者になっているということだ。
さて、問題はここだ。こうした持続における経験の蓄積を絶対無の場所は可能にしなくてはならない。単位行列とパウリ行列とで表現されたこの絶対無の場所は、そのような能力を持った空間として解釈することができるだろうか。
ここで、この単位行列とパウリ行列で表現された空間は何だったのかを思い出しみよう。これは、ヌーソロジーでは無数の垂子空間が重畳した垂質空間の物理学的表現だ。
この空間は複素2次元で見れば、スピンのSU(2)の変換場に相当しているが、スピン自体、観測者周りの無数の垂子次元を統合したものなので、SU(2)は、観測者の周囲におけるすべての主語となる場を特殊(述語面)へと変換する場を担っていることになる。つまりは、そこでは絶対無駄の場所は、無限次元の複素ヒルベルト空間の意味を持っていることになる。
西田は晩年、自らの哲学を「創造的モナドロジー」と呼んだのだが、まさにこのモナドを素粒子(この場合、物質粒子)と見なすならば、西田の場所の論理を量子力学の数理構造と重ね合わせることで、哲学と物理学が一致を見る。
ヌーソロジーの構造概念が両者を結びつける働きをしているということだ。
自己が自己を映す鏡の場・・・実際には鏡像化していた自己を真の主体へと映し返す場のことなのだが、この場こそが、OCOT情報にいう「位置の等化」の意味なのである。
5月 26 2025
存在の時間と存在者の時間
OCOT情報は宇宙の膨張は人間の感性の働きが物理学的に表現されたものだと言っていた。
これを群で表現したものが、SO(1,4)という群で、ド・ジッター群と呼ばれている。これは時空全体をSO(1,3)のローレンツ群とした場合、そこに膨張方向としての空間次元を一つ加えたものになっている。
AdSとは反ド・ジッター群の意味で、ある意味、このド・ジッター群が反転したものと考えるといい。だから「反」が頭についているわけだ。このAdSは群としてはSO(2,3)で表現される。SO(1,4)とSO(2,3)を並べて見ればすぐに分かると思うが、ドジッター群の4次元目の空間が時間に置き換わって、5次元の構成が変化している。
これは、ヌーソロジー的に見るなら、人間の意識から感性が失われ、他者側の思形(時間)が自己側の時間に入り込むという意味になる。つまりは、自己が他者世界へと投げ込まれる様子がこの「反」には含まれているわけだ。
時空のあり方の変化から見るなら、この5次元で起こっている出来事によって、自己は他者と同等に並べられ、「人間」という名で一括りにされていることになる。
そうなると、必然的に自己本来の存在の時間が隠され、存在者の時間が幅を利かすようになってくる。存在者の時間とは、時間の由来が自己の内部にあることを知らない、死んだ時間のことである。
自分とは関係なく、最初から時空が外にあると考えている、現在の私たちの時空観、時空感覚は、すべて、この存在者の時間が与えているものと考えていい。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: Ads, OCOT情報, ド・ジッター