9月 10 2025
シュレディンガー方程式とは主観空間の数学的表現
シュレディンガー方程式とは、主観空間を数学的に表現したものである。そういう結論になりました。意識が超越論的なものの世界へと侵入していくためのベース基地のようなものです。
例えば、電子の状態ベクトルの回転に対してたえず逆行して働いているのがゲージ場としての電磁場です。それがある意味、エネルギーの固有ベクトルに絶対的な不動性を与え、主観に「いつでも今、どこでもここ」という感覚を与えています。詳しく説明しておきましよう。
状態ベクトル∣ψ(t)⟩は、シュレディンガー方程式に従って常に回転(時間発展)を続けます。この回転は主観の志向性を表し、意識の持続として感じられます。
一方、ゲージ場(特に電磁場)は、量子力学においてU(1)ゲージ不変性に対応しています。このゲージ場は、状態ベクトルの回転(位相変化)に対して、常に「逆行する方向」へ作用していると解釈することができます。
状態ベクトルは主観的な志向性として時間に沿って進行(回転)しようとして行きます。しかし、電磁場(ゲージ場)はその回転に対して常に「逆方向のベクトル」を与え、その進行を相殺し、一定の「基準となる方向」を示し続けます。この二つの働きが相補的に作用しているわけです。
ゲージ場(電磁場)が常に逆向きの作用を与えていることは、意識が常に参照できる絶対的な「基準軸」の生成に繋がります。これはエネルギー固有ベクトル ∣E⟩に特別な不動性を与えています。
つまり、状態ベクトルと電磁場(ゲージ場)、この二者が対照的に働き合い、主観空間の中においてエネルギー(認識)方向に「不動点」を作り出すことで、「いつでも今、どこでもここ」という絶対的な意識の安定感(不動性・持続性)が得られているということです。
自分の周りに、このような不可視の空間メカニズムが働いているということを知ることは、とても面白いですよ。それがあるから、君に君というものが感じられている。量子世界というものは物理的対象なんかではないということ。
昨日「いや、見るとは、世界を生成している起点そのものなのだ」「 世界の始まりは対象ではなく、持続の自覚にある。」って書いたけど、今話したことが、この「持続の自覚」に当たると思ってください。
主観(見ること)が客観(見られること)を断ち切って、生成の世界へと入っていく始まりの位置のようなものです。
魂の中へと入っていく方法論というのは古今東西たくさん伝承されてきたんだろうけど、OCOT情報ではそれは反転した思考によって達成されないといけないと言っていた。ようやく、それが実現する時代がやってきたんじゃないかなって、個人的には思ってる。
10月 9 2025
「位置」
「人間には位置が生まれていない」
それがOCOTの口癖だった。
位置………位置って何だ?
それを考えるだけで1年は費やした。
答えは単純なところにあった。
見ること——それが「位置」の異名だった。
よくよく考えてみれば、
いつからか、「見る」ということが、
世界の内部に閉じ込められていた。
観測者である私が、観測される側へと
いつの間にか、すり替わっていたのだ。
けれど——幼い記憶の中で、たしかに覚えている。
“見よ”という呼びかけが、外からではなく、
内側の内側から響いていたことを。
その声が起こるとき、空間はまだ空間ではなく、
時間はまだ流れてはいなかった。
それは、ただ、方向を持たない感受の源だった。
そこに、私はいた。見るよりも前に、
「見るという出来事」が私を生み出していた。
だから今、私はこうして問いかける。
「私は、どこから見ていたのか?」
——その問いを思い出すとき、世界はもう一度、私の内に還ってくる。
時空の向こうから、観察の秩序がそっと、私の素性について囁いてくる。
それが腑に落ちたとき、 観測者の位置の回復が産声を上げる。
⚫︎「位置」が生まれると………
位置が生まれると、自己と他者が「人間」という枠から離脱する。
ここで「人間」と呼んでいるのは、生物学的人間、つまり、人間という種で一括りにされた、差異なき自他という意味だ。この視点が、人間の可能性を封じ込めている。
考えてみよう。
私たちが普段「私が世界を見ている」と思っているとき、
実はすでに「他者の目線から自分が何を見ているか」を無意識に演じている。
つまり——見ているようで、見られている自己として振る舞っているということだ。
この無自覚な意識的転落が、「世界=客観的にそこにあるもの」という思い込みを生み出している。
つまり、問題の本質は、「他者視点で世界を見る」ということが当たり前の感覚になっていて、人々が“世界を見る自己”ではなく、“世界から見られている自己”に無自覚なまま生きていることにある。
⚫︎物質の秘密
この無自覚な転落的反転が、「世界=客観的にそこにあるもの」という思い込みを生み出しているということだ。では、自己視点が奪回されると何が見えてくるのか——
物質の秘密がわかる。
つまり、私たちが普段「物がある」と思っているその“物質”とは、実は、他者視点化された自己の前に浮かび上がってきた、自己視点の世界だということた。
存在自体が自分を見るために、他者視点化し、そこに生まれてきたのものが、物質的世界と人間だということ。その詳細を、素粒子レベルから懇切丁寧に説明を与えて行こうとしているのが、ヌーソロジーだと思って欲しい。
というか、素粒子が自己視点の始まりの世界なので、これは、存在からの必然的な要請でもある。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報