内包空間への反転を決行しよう

「付帯質」には精神における受動性に生み出される「無」の力、といったような意味がある。見るものを精神とするなら、見られるところにこの付帯質は生まれる。二つの精神があるところには、この付帯質も必ず二つ生じる。「対化」はこのように「4」の関係を持って顕在化を起こす。
 
この四値的関係が数学的形式として表現されたものが複素円だと考えられる。精神の対化がi、−i。付帯質の対化が1、−1という関係で表現されている。
 
このシステムは、同時に空間にも根を張っている。空間を内包と外延に分離させているのも、この四値関係だ。内包/外延への分離は複素数の反転という関係で現れる。今回のシュタヌー本のP.462では、その仕組みを下図のように図示した。
 
この図の中心点はシュタイナーの言葉でいうならエーテル中心であり、非局所的一点である。図にも示しているように、複素円周自体は観測者の自転の軌跡を表している。つまり、自分が”自転”したとき、空間は前を内包へ、後ろを外延へと分割している。前が精神、後ろが付帯質だと考えるといい。
 
見られることによってしか、自己をアイデンティファイできない人間の自我は、複素円の外部にしか空間を感じ取るができない。それが「人間の内面」という概念であり、これは他者のそれと同一化することによって延長世界(時空)を作り出す。
 
この同一化によって、精神が働く外面側は認識からすっかり消失してしまっている。言うまでもなく、この消失した人間の外面側に人間の生命力としての純粋持続が息づいている。シュタイナーのいうエーテル空間だ。
 
ヌーソロジーは単にこの失われた知覚を取り戻せ、と言っているだけだ。付帯質(外延)で覆われた世界観では本質に何一つ触れることができない。はっきり言えば、すべてが虚構で塗り固められている。
 
内包空間への反転を決行しよう。外延にすっかり慣れっこになった僕たちの意識には、それは至難の技であることに違いないが、このまま外延への惰性で思考を続行することは、生命の力を減衰させるだけだ。
 
※下図の人体は意識の位置を比喩的に表しているものであって、物質的な肉体を意味しているわけではないので注意されたし。

複素数の反転にみる人間の内面と外面