改めて、言葉とは何かについて簡単に書いてみる

——OCOT情報では「言葉はヒトの定質において作られ、ヒトの思形において送り出される」と言います。あまりにもあっさりとしたもの言いではあるのだけど、その意味はおおよそ次のような感じです。まず前提として精神には彼岸と此岸というものがあるということ。正確ではありませんが、便宜上この両者を人間における「あなた」と「わたし」と呼ぶことは可能です。文字通り「あなた」という存在は「彼方(あなた)」にいると思えばいいでしょう。OCOT情報がいう〈ヒトの定質〉というのはすでにこの「あなた」と「わたし」のどちらの精神も持ち合わせている統一的精神のことを言い、その力は言うまでもなく自他を等化しています。

これは裏を返せば、人間が用いる言葉の場所ではすでに自他は等化を前提として生きているということを意味します(同一化を余儀なくされているということでもあるのですが)。言葉によってコミュニケーションが成立するのはこうした統一的精神が人間存在に先駆けてセットされているからだと考えるといいと思います。先行的に投射されたものという意味では言葉と外在世界(時空)とはほとんど同じものです。ですから、言葉の発生が世界を出現させると言い換えてもいいわけですね。

このように言葉と外在世界の由来が同じものであるのならば、外在世界とはすべて概念(悟性による言葉の力)の産物にすぎないとも言えます。一般には言葉は人間の意識が知性的段階にまで発達することによってモノに貼付けられたラベルのように考えられていますが、決してそのような表面的なものではなく、モノとともに練り上げられていった精神による生成物のようなものだと考えなくてはなりません。だからこそ言葉は物質の多様性や複雑性に対していつまでも付き添うことができるのです。つまりは亡き父(姿を消してしまった創造者)の痕跡として言葉もまたあるということです。

もちろん、実際にはわたしたちの内在性も言葉で多様に表現されているわけですが、あくまでもこの内在性は外在性に従属させられた状態でしかありません。本来、結果として出現している世界を原因と取り違えてその中に縛られている——それが現在の人間のこころの在り方です。結局は死せる神霊にすべてが支配されているという例の神話パターンに尽きるのですね。古来より言葉が「呪(しゅ)」と言われるのもそうした縛りから来ているのだと考えて下さい。

しかし、同時に人間は新しい精神の誕生に向けて方向付けられてもいるのです。知覚が降り立つ場所(主観世界=感性)とは本来そうした方向付けをされた場所であり、ここでは同一性から抜け出そうとする新しい精神の胎動があります。哲学的に言えば、知覚というのは本来、存在論的差異(同一性から抜け出そうとしているということ)を持とうとしている場所なのです。存在における人間の役割とはこの新しい精神に向けて存在を脱皮させることにあるのですが、そこにおいては言葉はその胎動を何とか押さえ込む抑圧的な力としてしか働きません。唯一、詩の言葉を除いては、ですが。。このへんはポスト構造主義の識者たちがすでに指し示していることではありますが、いかんせん問題は新しい精神の覚醒というものが果たして従来の言語の同一性を拠り所とする思想という思考作業の延長の中で可能なのかどうかということ。思想の思考は言葉で紡ぎ出されるものだから、結局は同一性に回収されざるを得ないのでは?というのがヌーソロジーの思想全般に対するスタンスなのです。

自己と他者、知覚と言葉、被造物と創造者。。。こうした二元的な対比はすべて互いに深いつながりを持って存在全体の機構の中でネットワーク化されています。言葉はこの中でこの全体性を閉じるものとして働いているのです。と同時に新しい精神の種子としてもうごめいている。この種子を発芽させること、この全体性を開かれた全体性へと持って行くこと、それが今、世界に要求されていることではないかと思っています。そのために必要なのが、この存在の根幹となる創造の回路を幾何学的に表現し、そのトポロジーの助けを借りて人間の役割というものを存在全体との関係において見つめ直すことだと思ってます。別にここでいう「人間」というのは人類とか大仰な意味では決してありません。それは個として生きる「わたし」自身のことです。現代物理学というものはその創造の回路の青写真として登場してきたのだと僕は思っています。だからこそヌーソロジーはここに執拗にこだわるのです。

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