カタカムナの詩

8月8日は福岡ヌースレクチャー2014シリーズの千秋楽となった。東京と同じように、最後のテーマは「カタカムナとヌーソロジー」。
 
話していて気づいたのだが、カタカムナの思念を混ぜて、素粒子の話をすると、素粒子のことを知らない人でも、素粒子のイメージが直観的につかめるようだ。いつも「マクロはミクロに巻き込まれているんですよ、反転しているんです空間は!!」などと言って、力んで吠えているのだが、カタカムナを通して語ると、そんな力みも必要なく、すぅ~と、概念が聴く人の中に浸透していっているのを感じる。これもまた、カタカムナの言葉が持った思念のヒビキゆえのことなのだろう。
 
下に小難しく書いた内容を昨日ツイッターで次のようにコンパクトにカタカムナ人たちの思念で表現した。
 
「アマはアメとなって大地に降り注ぎ、アメはマリとなってアマを映し出す。アマはそのままマリに宿り、マリはマトマリとなってアマナ(原子核)となり、そこにトキトコロが現れ「もの」が降り立つ。原日本的な「ひとつ」がここにある。。」
 
すると、これを「詩」にして返してくれた人物がいた。誰とは敢えて言わない(笑)。これにはビックリして、思わず「Wow!!」と反応してしまった。ヌーソロジーがギャーギャーわめかなくとも、知っている人は知っているのだな、と。じ~ん、ときた。
 
——星の雫は地に染みて、水の鏡に天映し、コロリコロリと鞠となる。玉は生まれて魂となり、凝りて巡りて踊り舞い、時と処の基となる。時始まれば、天の魂、地とまぐわひて種を産む。芽吹き花咲き実をつけて、永久の働き繰り返し、練りて捏ねれば一となる。鏡曇らば天映さず、泣いて嘆いて歪みたまふ哉——行雲流水
 
マクロはミクロへと巻き込まれ、ミクロは「わたし」と「あなた」の出会いの場となって、美しい物質たちをトキとトコロのあちこちに花咲かせる。そこではトキトコロとはわたしたちそのもの。
 
日本語の精神だけが、このトキトコロと共に生きている。アウノスヘシレカタチサキ——。まさに、わたしたちは、わたしたちが「一つになる」ということの意味(アウノスヘ)を、ユダヤ-キリスト教的な「愛」のようなまやかしを乗り越えて、正しく知るべきときに来ているのだろう。カタカムナ人の心はきっと蘇ると思うよ。この国に。

カタカムナのウタヒ第5首