物質と精神のつながりをイメージしながら自我についても考えていくこと

水平性の中に突き刺さっている垂直性。それが物質です。まずはこうした構図を設定しないと、自然の謎は決して分かりません。ここでいう水平性とは時間と空間のことです。物質の起源は時空の中にはありません。20世紀になって登場してきた量子論はそのことを明らかにしてきたのだと思います。
  
この前のアトリウムでは、こうした量子のことをシュタイナーの予言にあやかって「エーテル界のキリスト」として話しました。
  
物質的知性のクセは量子を対象として見たがります。それをやらせているのは、言うまでもなく、幅化した奥行きです。物理学的思考はなかなかこの「幅化した奥行き」の呪縛を払拭できません。奥行きに幅が入ると、本来の奥行きは一瞬でズームアウトされ、ミクロ世界の中に観察されてしまいます。
 
主客分離という悲劇が発生するのも、まさにその瞬間なんですね。
 
そして、この主客分離の領域をフランチャイズとして生きているのが、私たち人間の自我です(シュタイナーのいう自我とは意味合いが違うので注意)。
 
シュタイナーは「エーテル界のキリスト」の登場は1930〜40年ぐらいになると言っていました。そして、それは知的な営みの中において現れるとも。
 
シュタイナーは、このキリストの存在はアーリマン的なものとルシファー的なものの調停者として現れてくると言います。シュタイナーのいうアーリマンとルシファーとは、簡単に言えば人間の中に潜む二つの悪のタイプのことです。この二つの悪は、象徴的に言うなら、科学的悪と宗教的悪とも言っていいものです。
 
その意味で、一応、アーリマン的なものを、私たち人間の客観的な意識に潜む悪としましょう。これは科学的唯物論などをイメージするといいと思います。
 
一方、ルシファー的なものを主観的な意識に潜む悪と考えてみましょう。これは、宗教的な超越主義や、それが引き起こす幻想の類のようなものです。
 
そのように仮定するなら、今度、私たちの眼の前に出現してくるキリストは、主観的とも客観的とも呼べないような、奇怪なものとして現れてくるはずです。なぜなら、それは、主観と客観を調停する存在形態を持っているはずですから。
 
そうした奇怪な存在が果たして、1930〜40年辺りに「知的に」登場してきたか。。。ヌーソロジーはこの問いに「然り!!」と答えます。
  
量子ですね。量子こそシュタイナーが予言した「エーテル界のキリスト」。そのように考えるわけです。
  
問題は、量子を相も変わらず、物質として見ようとしてしまう人間の認識が持った頑ななクセです。量子が物質の存在形態を持っていないことはすでに分かっているにもかかわらず、相も変わらず物質というフィールドの中に監禁したままにしている。
  
量子を外的に見ることは、そろそろヤメにして、内的に見ることを開始してはどうでしょうか。そうすれば、知的に登場してきたエーテル界におけるキリストは、エーテル形姿として、今度は私たちのエーテル知覚の中にはっきりと姿を現してくるはずです。人間すべての内在性の中にキリストは生きているんですね。宇宙の始源(アルケー)として。

エーテル界のキリスト