7月 3 2017
シュタイナー思想とヌーソロジー ——物質と精神をつなぐ思考を求めて
ヌーソロジーのシュタイナーとのコラボ本、Amazonで予約を開始したようだ。長かった。もともと、この本の企画は、2013年の夏に観音企画の影山氏が神戸でシュタイナーVSヌーソロジーの対談イベントを行ったことが起点になっている。
その後、東京でも似たイベントを行い、そのとき、たまたま参加してくれていた江口氏なる怪しげな人物(笑)が、内容に痛く関心を示してくれて、書籍化の話を持ち込んできてくれた。
いきなりの話で、最初は一体、何者かと思ったが、この江口氏なる人物、元々は音楽関係の方で、あの知る人ぞ知る伝説のバンド「たま」のプロデューサーだった。「たま」の最大のヒット曲は「さよなら人類」。〜今日、人類が初めて木星に着いたよ♫〜。というあの名曲だ。
「たま」?「さよなら人類」?「木星に着いた」?……こりゃ、やるっきゃないだろ(笑)、ということで、イベントに参加してくれた福田、大野の両氏も快諾。そこから、神戸、東京での話の内容のテープ起こし原稿をベースに、書籍化の作業が始まった。
神戸ではシュタイナー研究家の福田氏、東京ではそこに医学博士でシュタイナーにも詳しい大野氏の参戦。時と場所も違えば、メンツも話の内容も違う。この二つのイベントをミックスするわけだから、これは当然、ありもしなかった、もしくは、ありえたかもしれないコンサートのライブ盤を作るような作業になる。
江口氏の編集作業はたぶん地獄のような様相だったに違いない(笑)。壮大すぎて、底の見えないシュタイナーの思想と、未だ海のものとも山のものとも得体の知れないヌーソロジー。その二つを合体させていく作業なのだ。
本のためのミーティングも四人で何度か持った。書き起こし原稿だけでは貧弱だったので、そこに加筆分が、断続的に堆積していく。江口氏は、そのつど、そのつど、三人から送られてくる原稿を、齟齬をきたさないように、元原稿に組み込んでは架空のイベントを演出していく。離れ業だ。
まさに、時系列を無視した持続空間での講演本+鼎談本ということになる(笑)。ほんでもって、気がついたら、1000ページば遥かに越しとるやんけ〜!!!という、掟破りの体裁に。この暴挙に目を瞑っていただいた出版元のヒカルランドの石井社長にも頭を下げたい。
こんな作り方の本は、僕も初めてなので、実際に手に取ったときの感触が楽しみではある。ジャケット(装丁)もヌースのイベントにちょくちょく顔を出してくれる画家のマシマ氏の作品をベースに天海氏がCG処理を施したものが採用された。発火するエーテル体のイメージだろう。二人ともヌーソロジーとシュタイナーの何たるかを知っている人物なので、本の内容にもバッチリ、マッチしている。お二人の協力に心から感謝!!
初版印刷部数1000部、おまけに1200ページ近い分量、ということで、致し方なく高価な本になっているけど、そのへんの本を4〜5冊買うより、遥かに強烈な意識体験が味わえると思うので、そんなに損はないと思います。ヌーソロジーに関心がある方のみならず、シュタイナーを学んでいる方も是非。
ということで、Amazonページ、紹介しておきます。
『シュタイナー思想とヌーソロジー ——物質と精神をつなぐ思考を求めて』
7月 5 2017
反時代的なものへの狼煙(signal fire)を上げること
「時間と空間は結果にすぎない」「結果から世界を認識しても原因にはたどり着けない」。ツイッターではそういう話をずっとしています。これをもう一歩突っ込んで、―時空は結果にすぎない。時空をベースに世界を思考しても世界には触れることはできない―と言い換えてもいいでしょう。
問題は、なぜ人間は時空をベースに世界を認識、思考することを余儀なくされているのか、そこにあります。これは裏を返せば、本来、持続(時間の流れのない世界)に生きている人間がなぜ、時空という場所に投げ出されてしまったのか、そこに問いを立てろ、ということです。
持続から時空が成り立つ条件、それを明らかにすれば、わたしたちは時空の何たるかを知り、時空を超えた世界に生きることができるようになってきます。
時空というものは私たちを「一つ」という観念の中に放り込んでいます。いわゆる、同一性の温床です。そこに肉体というカタチで存在させられ、個人個人はそれぞれの主観で生きていても、結局のところ、時空/主観意識という意識の反復の中で「一つ」の中に閉じ込められています。
ざっくりというなら、この反復のループの中に生じているものが自我意識の同一性です。ニーチェからドゥルーズに至る現代思想の系譜は、常にこの自我の同一性を問題にしてきました。この檻、この反復の輪っかからいかにすれば脱出できるのか―それが哲学者たちにとって解決されるべき最重要課題であり続けてきたわけです。
問題はこの「一つ」です。時空(外の宇宙というイメージでいいです)に対する眼差しの中でわたしたちは一つにさせられている。科学者たちの「137億年前にビックバンがあった」などというセリフも、この一つにさせられた眼差しのもとに発せられているんですね。
ならば、こう考えてみてはどうでしょう。時空が一つにさせられている眼差しのもとにあるのなら、わたしたち一人一人の個別の眼差しが統合されたところに、実は時空というものが生まれてきたのだ。そうに違いない―と。
これが、時空は結果だということの意味です。ならば、時空を生み出したものは次のような履歴を持っているはずです。つまり―。
わたしとあなたとの間で「見る/見られる」という関係の中を行き交っている視線が、まずはわたしの中で統合され、次にあなたの中でも統合され、そして、それら両者もまた統合される―。
もちろん、ここで「見る」と言っているのはわたしたち自身それぞれの持続を含みもった眼差し、つまり「奥行き」のことを言っています。
このことは例のラカンによる黄金比の定義を彷彿とさせます。つまり、「わたしから見たあなたの関係が、あなたとわたしから見たわたしの関係に等しくなるとき、そこに黄金比が生まれる」―という。
そして、ラカンはこの黄金比のことを「愛」と呼びました。
もうわかりますよね。つまり、わたしたちが時空を「一つ」と感じてしまうのは、時空がひっくり返った「愛」だからです。
そして、このひっくり返った愛とは、愛がひっくり返っているわけですから、愛が全く存在しない世界、もっと端的に言うなら、虚無と言っていいものです。
物理学を知ってる方は、一度、時空(ローレンツ変換対称性)が複素空間の次元構成(素粒子構造)の中で、どのようなプロセスを経て出来上がってくるのか、その経緯を数学的に追いかけてみるといいでしょう。そのとき、どうか虚軸と実軸を見るものと見られるものの関係に置き換えて解釈してみてください。
そこには、さきほどいった、ラカンの愛の定義の運動が起こっているはずです。
その風景が見えてくると、素粒子は本来、存在しなくてもいいもの、という結論が生まれてきます。素粒子とは時空に首を突っ込んでしまっている人間の意識を、裏で時空を作り出したものの位置にまで引っ張り上げている力の流れのことなんですね。この裏の働きが潜在的なもの、つまり無意識です。
僕が素粒子のことを「潜在的変換性」と呼んでいるのも、そういう理由からです。こういうことを語っている思想家は、僕が知っている限り、世界でただ一人、実はもののけのしおりちゃんだけなんですよね(^^)。
ヌーソロジーから見ると、デジタルテクノロジーの発展を前提とした新反動主義や、同じく、科学的世界観に重きを置いた思弁的実在論といったような今の思想の趨勢は、人間を無の奥底へと落下させていくような思考態度に見えます。ヌース(精神実体の営みそのもの)の抹殺に取り掛かっている。
でも、その方向に対する力強い対抗軸がまだどこにも現われていないように思えます。ドゥルーズの言葉でいうなら、時代的に、ではなく、反時代的に、思考していくこと。そういう思考を何とか立ち上げていく必要があるんです。
精神の炎をこのまま消し去ってはいけません。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: もののケのしおり, ドゥルーズ, ニーチェ, ラカン, 奥行き, 素粒子