12月 6 2025
霊とは何か
他者視点から抜け出し、自己視点に戻ったとき、私たちが生きているのはもはや「時空」ではなく「持続空間」になる。
そこでは「いつでも今」「どこでもここ」という不動の私が立ち上がり、世界そのものが“内在的空間の像”として見えてくる。
宗教的に言えば、それは「世界の霊化」であり、そこに原点として立つ、この不動の私こそが“霊”なのだと考えないとけない。
つまり、こういうことだ。
霊界とは、どこか別の世界にあるものでも何でもなく、世界を見る視点が反転したとき、そのままのこの現実が霊界として姿を現すということだ。
そして、それは可能だということ。




12月 8 2025
生死不二としての霊界——自己視点の回復
霊界とは、決して“死後”に訪れる別世界などではない。それはむしろ、“視点の反転”によって現前する自己世界そのもののことである。
私たちはふだん、「生きている世界」だけを現実と見なしている。しかしそれは、他者視点化された空間、つまり世界を“外から”見るという見方に根ざしている。この視点は、自分を他者化し、自分の周囲を“外的な存在”として並べる立てる視座である。
だが、本来の「私」はそのような他者的空間にはいない。本当の私は、“内側から”世界を持続的に経験している主体である。この主体の立場から世界を見ること——それが、ヌーソロジーが自己視点の回復と呼ぶものであり、それは確実に霊界の開示につながっている。
ここで重要なのは、ヌーソロジーの視点においては、死とは意識の停止などではなく、”自己視点の浮上”であるという理解だ。つまり「死」とは、時間の流れを停止させるのではなく、時間そのものが「不動の持続」として自覚される場所、すなわち、奥行きにおいて、“霊的正面”が露わになる場である。
仏教が説く「生死不二」は、この視点の分断を越える洞察に他ならない。生と死は、断絶した二つの状態ではなく、一つの空間構文における、表か裏かという視点の違いにすぎない。
他者視点化によって、私たちは“霊的正面”を忘れた。その正面のなかで生きているものたちの世界こそが、「生のただなかに重なっている“霊的構造”」にほかならない。私たちはずっと、“霊界”のただ中にいたのだ。ただ、その方向を“見る”ことをやめていたにすぎない。
霊界とは、死のなかにある生であり、生のなかにある死である。そこに至るとは、“自己視点”の復興によって、生死の境界を無効にし、その全体性を生きることに他ならない。
霊的正面を開こう。何度も言うが、それは不可能なことではない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0