6月 12 2019
Think totally different.
見えるもので見えないものを説明しようとするのではなく、
見えないもので見えるものを説明できるようになること。
奥行きの宇宙論とはそういうものだ。
これは先日話した「現象以前の一者とともにありながら、しかもそこに現象的多者を見る」という例の「双眼の士」の思考とも言える。
まず第一に「あるもの」を認識して、次にその根拠を考える―という思考ではダメなのだ。ヌース(創造的知性)は逆。自己の内的な位置に立ち、それが外にどう表現されているのかを考える。
実際、僕が経験したOCOT情報はすべてその文脈に沿っている。だからこそ得体の知れぬ異質性が漂っているわけだけどね。たとえば、元素については次のように語ってる。
●原子番号1 水素
・フタイ質がイチを持ち始める初めての反映
・進化の方向にある人間の思形の対化を等化に持っていく力と方向。
・イチの発露がタイカに交差する状態
●原子番号2 ヘリウム
・人間の意識における発露を持つものが発露を等化し、顕在化を内面に生み出すこと。変換作用。
何を言ってるかさっぱり分からないのではないかと思う。
僕も最初はそうだった。25年間の格闘の末、今なら少し解説ができる。
イチとは精神の位置といったような意味だ。彼らの世界では、精神がなければそこにはイチはない。
水素-ヘリウムの次元は「点球」とも呼ばれていて、それは僕らが日頃経験している物の象りとしての空間のことを意味している。言い換えるなら、触覚を通して感じる「かさばり」のことだ。
精神が自らの持続空間の中にこの物の象りの感覚を取り込む次元の知性への開示のことを「顕在化」と呼んでいると思えばいい。
OCOTによれば、人間の意識にはこの「顕在化」がまったく生まれていない。そりゃそうだ。持続空間という概念すらないのだから、精神の場所なんて思考のしようがない。
人間にはそうした精神の場所がまったく見えておらず、ただ漠然と物を知覚し、そこからアプリオリ(哲学でいうところの無意識の構成)によって自己意識を経験させられている。誰も自分で意識して自分になったわけじゃないからね。
OCOTは、そうした自己を組織化しているものが素粒子だと言ってる。元素は、その意味でいうなら、そのアプリオリとしての素粒子次元のもとになっているものだとも言える。
つまり、反転した世界では素粒子によって元素が作られているのではなく、元素によって素粒子が作られているってことだ。素粒子(人間の無意識)は精神の残響音のようなものとでも言いたげだ。そして、それは「―潜在的変換」でもある。宇宙が人間を「こっちだよ」と言って呼び戻している方向とでも言おうか。
だから、人間の知性が素粒子を実体として自らの持続の中で思考し、理解していくことができれば、そのプロセスがそのまま元素的なものへの生成へと繋がっていくってことになってくる。
このあたりは、ハイデガーなんかが言ってる「存在=アレーテイア(真理)」をおそろしいほどに詳細に語ってくれている感じだな・・・。
SFとして聴いても、最高に面白い話だと思うよ。
宇宙はトンデモないものなのだから、トンデモない発想をしないと、そりゃわからんよ。
6月 14 2019
現実的対象と潜在的対象
幅化した奥行きには二つの方向がある。一つは対象から観測者に向かってくる方向。もう一つは観測者から対象へと向かう方向。この二つは向き付けが逆の反転した3次元を作り出している。前者が人間の内面、後者は人間の外面に関与を行っている。ヌースではこれを思形空間と感性空間と呼んでる。(下図上参照)
思形空間は瞬間的な現在しか持たないが、感性空間は持続(虚軸)に関与しているので、古い現在を重層的に含み持っている。思形空間ではリンゴは単なる現実的対象に過ぎないが、感性空間では、リンゴは記憶と一体化し、潜在的なものを含み持つ潜在的対象となっている。
このリンゴは昨日からここに置いてある。悪くなっていないだろうか―など。
知覚は常に記憶を含んでおり、それは局所的な小さな主体でもあるということ。潜在的対象とはそういうものだ。
現実的対象と潜在的対象。これらは外感覚=客観と内感覚=主観と言い換えてもいい。思形空間は思形(時間)によって統合され現実的対象のセリー(連続性)を作り、感性空間は感性によって統合され潜在的対象のセリーに触れている。ケイブコンパスが表現しているのはそれら二つの意識の流動性だと考えるといい。
人間の個体の意識は、まず感性=ψ10から立ち上がり、その後、思形=ψ9を発達させ、次にそこからまた感性に戻るといった順序で、この無意識の回路を反復することによって生み出されていく(下図下参照)。
そして、13~14歳あたりになると、この思形と感性の関係を捻る方向へと成長していく(ψ12~11へと進んでいくということ)。
幼児は感性空間そのものとして生きている。幼児にとって対象はすべて潜在的対象であり、それは自分自身と区別がつかない。また、幼児は流れる時間というものを知らない。流れる時間を知らないのだから、当然、瞬間的現在を表象化することもできない。流れる時間は思形の発生と共に意識に浮上し始める。
思形はサイド(左方向)からの視線として現れる。それによって初めて空間が意識化されてくる。思形が対象と観測者の間に幅を見せてくるのだ。ここは感性の場所であると同時に、対象の手前に観測者を意識させる空間でもある。二つの向き付けの3次元が思形には見えている。
ここで話しているのは、別に心理学の話ではない。素粒子構造についての話だ。そこがヌーソロジーの特異なところ。主客一致の世界観はこうしたロジックの元に到来してくると思ってる。理解できてくれば、君は世界の中に「生成」そのものとして溶け込んでいく。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 素粒子