11月 22 2025
目から物を見ていると考えるのをやめよう
私たちはふつう、「目で物を見ている」と考えています。
しかし、この当たり前の認識こそが、
私たちの“見る”という行為の本質を覆い隠してしまっていることに、気づいている人はほとんどいません。
・見ているのは“物”ではなく、“意味”だった
あなたがリンゴを見るとき、
あなたの視線がリンゴに触れていると思うかもしれません。
けれど、その瞬間、あなたが見ているのは本当に“リンゴ”でしょうか?
実際には、あなたが見ているのは、
「それをリンゴと呼ぶ意味」──つまり、言葉の枠組みで解釈された世界なのです。
つまり、“見る”という行為の中に、すでに“語る”という構文が先回りしてしまっているのです。
・ヌーソロジーはこう問いかけます。「あなたは、どこから見ているのか?」
これは哲学的な問いであると同時に、空間的な問いでもあります。
あなたが「目から見ている」と思っているその視線は、
すでに意味づけされた世界の中に沈み込んでいる“客体化された視線”です。
言い換えれば、あなたは“他者の視線”の中で自分を見ているのです。
・後頭部から前を見る──“見る”の原点へ戻る
ヌーソロジーが提案するのは、「後頭部から前を見てみよう」ということです。ここに現れるのが本当の”前”です。
この奇妙な提案の背後には、深い空間哲学があります。
後頭部の表面に当たるところ、そこには「見ようとする前の眼」があります。
それはψ6という自己中心化した空間の原点。
そこから右巻きに空間が開き、it軸の方向として“純粋な前”が立ち上がってくる。
目で見ていると、あなたは世界の中の一点に固定されます。
けれど、後頭部から見ると、あなたは世界そのものの中心に戻るのです。
・「言葉を見る」から「言葉が生まれる空間を見る」へ
“目で見ている”と思っている限り、あなたが見ているのは“言葉によって意味づけられた世界”です。
それは過去の記憶、他者の視線、社会の構文の中に埋もれた世界です。
けれど、もしあなたが“視線そのもの”へと戻り、“見るという出来事が起こる場”へとアクセスできたなら、あなたは言葉がまだ生まれていない空間を垣間見ることができるのです。
・世界を見るとは、空間構文の始原に触れること
ヌーソロジーが語る“空間構文”とは、
世界が「見える前」に広がっている、意識と空間の共鳴構造のことです。
私たちは、“意味”を通して世界を見ているのではない。
意味が立ち上がる前の“見ることそのもの”の場から、世界は立ち上がっている。その場所へと移動することが重要です。
・いま、この瞬間からできること
見ているものを「名前」で捉えようとするのをやめてみてください。
視線の発出点を、自分の「後頭部」に戻してみてください。
物を見るのではなく、“見ているという感覚”が起きている場所そのものを感じてみてください。
それは、あなたが世界を「生きている」という出来事の、
いちばん最初の場所です。
・見ることの解放
「目から物を見ている」と考えると、
世界は固定され、あなたもまた固定されます。
けれど、「後頭部から世界を開いている」と知ったとき、
あなたの意識は、言葉の奥に眠る自由な空間に触れ始めます。
そこにあるのは、まだ誰のものでもない、
あなた自身の見る世界です。
それは、
世界が“私を見る前”に、私が世界を創っていたということの思い出の場です。
懐かしくありませんか?




11月 25 2025
語りの主体は空間へと・・・
私たちは今、この瞬間にこそ、言葉を通して世界を見ているという「慣れ親しんだ知覚の構図」を、静かに、しかし確かな決意をもって、反転させなければならない。
もはや、言葉で世界を“意味づける”ことではなく、空間そのものが、私たちの知覚を通じて“語りはじめる”ことが求められている。この反転の地点こそが、ヌーソロジーが名づけるところの「空間構文」の領域というものである。
この空間構文は、哲学が長きにわたり模索してきた「超越論的意識」と深く共鳴している。カントやフッサール、メルロ=ポンティが言う「経験以前の条件」──すなわち、意識が世界を経験するための“場”や“地盤”を探ってきた営みと、空間構文はほとんど同じ射程にある。
しかし、ヌーソロジーの空間構文には、哲学的超越論とは根本的に異なる特徴がある。それは、言語と知覚の関係を、単なる主体-対象の関係として捉えるのではなく、自己と他者という二重の内在構造として再編成し、その関係そのものを“空間的な幾何学”として記述していこうとする姿勢だ。
つまり、空間構文とは、「世界が今のようにある」以前に──私たちが“どこにいて”、誰の“中”に存在しており、その空間がどのように折り重なり、どのようにして差異を保持し、他者と交差しているのかを、純粋な構文として浮かび上がらせるための建築行為なのである。
しかも、ヌーソロジーはこの幾何学的な空間構文に、さらに物質の“火”を注ぎ込む。それは、この空間構文の幾何に、素粒子構造──つまり、クォーク、レプトン、ゲージ対称性といった物理的基底の秩序を重ね合わせていくことで、空間そのものに発火(ignition)や発振(oscillation)を起こさせる、というものだ。
そのとき、空間はもはや“背景”ではなくなる。言葉の舞台ではなく、言葉の“発生源”となる。そして私たちが生きるこの世界は、語りうるものではなく、“語り出すもの”そのものになるだろう。
空間が語り——
空間が歌い——
空間が踊る——
世界とは本来、そのようなものでなければいけない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: カント, クォーク, ゲージ対称性, フッサール, メルロ=ポンティ, レプトン, 空間構文