8月 22 2016
反転した空間はどこに向かうのか―
かつてルドルフ・シュタイナーが語ったように、私たちは内包的なものを外延的に、外延的なものを内包的に体験することができなければなりません―ジョージ・アダムス『エーテル空間』
ここ最近紹介している「反転した空間」の意識化はシュタイナーのいうエーテル空間領域の扉を開くための基礎認識です。「内包的なものを外延的に体験する」とは精神を空間へと外化させるということを意味し、一方「外延的なものを内包的に体験する」とは世界を内在に変えることを意味します。
「反転した空間」においては「ただ一つの宇宙点(アダムス)」とも言っていいような点が現れます。それが「非局所」的点のことだと思って下さい。昨日、記憶の中心核と呼んだものですね。「どこでもここ、いつでもいま」と言っていいような位置のことです。シュタイナーはこれを「中心的な外的世界」と呼んでいます。
物質空間では記憶は脳の器官に保存されると考えていますが、ヌーソロジーでは意志的記憶であれ、無意志的記憶であれ、記憶はすべてこの中心的な外的世界の中に保存されていると考えます。否、保存されるというよりも、持続においては過去は真の現在そのもののようなものなので、「同時にある」のです。
ここは言葉を変えれば死の世界と言っていい場所になるでしょう。つまり、死とは肉体側に自己中心化していた空間が消え去り、「中心的な外的世界」側へと反転を起こすことだと考えるといいと思います。非局所的な永遠の現在へと意識の重心が移動するということですね。
その意味では反転した空間の認識への浮上は、死の知覚、死の復活と言ってもいいものになります。
これがもし真実ならば、わたしたちはとんでもない勘違いをしていることになります。肉体の死をわたしたちは死と考えているわけですが、反転した空間が見えてくると肉体は物質空間と反転した空間の接合点として感覚化されてきます。
つまり、肉体は非局所と接しているからこそ、歩くのです。走るのです。そして、座り、立ち、見回すことができるのです。そして、この肉体において命として生きているのはこの反転した空間の方です。物質空間の中には生命力はありません。というのも、物質空間には持続の力は存在していないからです。
死を持ち出すと、どうしても宗教臭くなってしまいますが、別にここで霊魂は実在する、なんてことが言いたいのではありません。そのような霊魂といったような概念もそろそろ破棄していい時期ではないか、と言ってみたいんですね。
霊魂とはその正体が何かわからないものに漠然とつけられた名称のようなものですよね。シュタイナーのエーテル空間にしてもそうです。存在は感じるのだけど、誰もそれをカタチあるものとして認識したことはなかった。
しかし、反転した空間が文字通り反転した空間としてカタチを持って認識され、それが構造的に素粒子(物質粒子)と一致するということが分かってくれば、霊魂という言葉も素粒子という言葉ももはや意味を全く失ってしまうような新しい世界に出ることができます。
こここから始まる思考が創造の思考です。ヌーソロジーなりの「外の思考」です。思考の外部に存在する真の思考です。
「全き外部」を到来させましょう。もうその時期です。
8月 24 2016
愛の原因としての愛と創造感覚について
ここのところ、暇を見ては素粒子物理について再考している。
結局のところ、ゲージ理論に表現される対称性の原理とはスピノザ-ライプニッツにいうところのコナトゥス(自己保存欲求)とイメージがほとんど被るな。コナトゥスというのは、常に自己意識を自己意識たらしめておこうとする力のことなんだけどね。「神の意志」とか呼ばれることもあるんだけど。
要はゲージ理論の中で要求される対称性というのは、延長空間(被造物空間)が提供する局所的認識と持続空間(創造空間)が提供する非局所的認識のバランスを維持している力だってこと。
観点の球面化の思考実験でもわかるように、人間の意識は時空の方に一方的に傾いていて、非局所的認識の方が完全に無意識化している。時空意識だけだと実体とのへその緒が切れてしまうので、その両者間の琴線が切れないように絶えず力の調整を図っているのが複素空間の次元において様々な対称性を持っているボゾン(力の粒子)の役割だということになる。
ヌーソロジーが「素粒子世界は超越論的無意識の構造(自我構造、もしくは魂の構造)だ」というのはそういう意味合いから言ってると思ってほしい。
OCOT情報はこうした構造のことを単純に「カタチ」と呼ぶんだけど、これはプラトンの形相(エイドス)という概念にとても近いね。このカタチが時空側に表出するときは今度は質料(ヒューレー)となって現れる。その意味で形相と質料はアリストテレスが言ったように同じコインの表と裏のような関係にある。
問題はどちらを先手に取るかというところ。。カタチが見えない人間は当然、質料を優先しているよね。今じゃカタチの世界は悪しき形而上とか言って一刀両断にされて、質料と共に現れたニセのカタチ(僕らが普通に形態と呼ぶもの)の方を形だと思い込んでしまっている。
こうした欺瞞ってのはどこにも見られるんじゃないかな。たとえば、愛という観念においても同じだね。一口に「愛」と言っても二つの方向があるんだよ。愛の原因としての愛と愛の結果としての愛ってやつ。前者はカタチを通して物質を創造していくんだけど、後者はカタチが見えず創造された物質世界の中で他者や物質を囲い込むように振る舞う。創造感覚が欠けた愛はすべて後者の愛だと言っていいと思うよ。
人間愛、家族愛、国家愛、なんでもいいのだけど、近代理性が掲げる愛がすべて嘘くさいのは、近代理性には創造感覚というものが完全に欠如してるからなんだ。人間が宇宙を創造できるなんて今の時代、誰も思っていないでしょ。でも、ほんとうはこの創造感覚というものが”信仰”の本質でなくちゃならない。その信仰の中に新しい愛のカタチ、愛の原因としての愛というものがあるんだよ。きっとね。
そろそろそっちに向かってもいいんじゃないかなぁ。
下イラストはこちらのサイトよりお借りしました。
http://www.twodolls.net/archives/2016/01/back-to-back.php
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: アリストテレス, ゲージ理論, コナトゥス, 素粒子