9月 7 2016
Are you ready?
人間の身体は存在論的反転の蝶番の位置に生成してきている。これは無限大と無限小の結節点に等しい。人が身体を自己中心化の位置として見ているときは、身体は巨人族の一員である。ここには時間の神が宿り、人は言語的動物と化し、俯瞰者として宇宙を我が物へと所有したい欲求に駆られる。
科学の目、政治の目、経済の目、これらはすべて巨人の目のバリエーションと考えていい。すべては一神教的精神の産物だということ。
しかし、同時にこの巨人は自分の奥底に潜む小人性に恋い焦がれてもいる。この小人性が女神アフロディーテだと考えるといい。ここには金星的美、つまりは黄金比が立ち上げる螺旋状の生成力が息づいている。人が経験する共感を通した喜びの感情はすべて、この螺旋力の反響としてもたらされている。
巨人が自力でこの小人の身体へと身を翻すことは不可能だ。巨人を巨人たらしめた者が背後にいることを忘れてはいけない。ユダヤ-キリスト教者が一心に待ち続けている「救済」とは、その意味で言うなら、彼らが神と呼ぶところのものにおける回心なのだ。唯一そのことに気づいていたカバラはこの回心をツィムツーム(収縮)と呼ぶ。
古代キリスト教においてキリストがヴェシカ・パイセスで表現されたのも、この互いに互いの中心を交差する二つの円が神の回心の身振りを象徴しているからにほかならない。
さぁ~て、諸君。
反転の準備はできているか?
もう一度、聞く。
反転の準備はできているか?
9月 9 2016
ヌーソロジーを理系の話と思っている人が多いがそれは間違い
スタッフのOくんがヌースレクチャー2015のVOL.4のDVDの製作に追われている。第四回のテーマは「次元観察子と自我」。ヌーソロジーを物理学を通した意識論と思っている人が多いが、実はこれは逆も言えて、心理学・哲学を通した物質論という言い方もできる。
このVOL.4は心理学や精神分析を通して観察子概念を解説する回になっている。案内文を見てみよう。
―人は折に触れて「わたし」とは何者かと考える。「わたし」が「わたし」であることは自明であるにも関わらず、「わたし」の意味について考えざるを得ないということは、「わたし」という存在がつねに正体不明なものであり続けているからに他ならない。哲学者デカルトは「我思う、故に我あり」と語り、
「わたし」とは思考する者のことだと言い切った。ここには現代人が考えるステレオタイプ化された自我イメージがある。しかし、この文章はどう見ても変だ。結果である「我」が原因である「思う」に素知らぬ顔で入り込んでいる。正しくは「思う、故に我あり」なのだ。
では一体何が「思っている」のか。それを人はつかめない。だから、あがく。「思う我」と「ある我」の間には、言葉で表現することのできない亀裂がある。この亀裂を超えない限り、人はほんとうの「わたし」を知ることはできない。
以上、引用終わり。
この亀裂のナゾを解くことがポスト構造主義最大のテーマだったと言っても過言じゃない。そこで、出てきた結論は、そこには「もの自体」が挟まっている、というもの。つまり、「もの自体=物質の起源」を挟んで、僕らの意識と無意識がグルグルとラットホイールのように旋回し続けているということだ。
BABYMETAL風に言うなら「悪夢のロンドが繰り返されている~♪」ということになる。このロンドに飽き飽きしているのなら、ワシらは「もの自体」に突入するほかはないじゃろう。その入り口が「奥行き」にあるという筋立てがヌーソロジー。
だから、ヌーソロジーは自我論でもある。ただし、そこで精神と物質を分けて考えない。だから、当然のように素粒子も出てくる。いや、出てこないとおかしい。結局のところ、学問における文系・理系の乖離自体が近代自我の産物であるということ。両者を接合しない限り、意識進化なんてものはやってこない。それを推して知るべし。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: BABYMETAL, デカルト