ヌーソロジーを理系の話と思っている人が多いがそれは間違い

スタッフのOくんがヌースレクチャー2015のVOL.4のDVDの製作に追われている。第四回のテーマは「次元観察子と自我」。ヌーソロジーを物理学を通した意識論と思っている人が多いが、実はこれは逆も言えて、心理学・哲学を通した物質論という言い方もできる。
 
このVOL.4は心理学や精神分析を通して観察子概念を解説する回になっている。案内文を見てみよう。
 
―人は折に触れて「わたし」とは何者かと考える。「わたし」が「わたし」であることは自明であるにも関わらず、「わたし」の意味について考えざるを得ないということは、「わたし」という存在がつねに正体不明なものであり続けているからに他ならない。哲学者デカルトは「我思う、故に我あり」と語り、
 
「わたし」とは思考する者のことだと言い切った。ここには現代人が考えるステレオタイプ化された自我イメージがある。しかし、この文章はどう見ても変だ。結果である「我」が原因である「思う」に素知らぬ顔で入り込んでいる。正しくは「思う、故に我あり」なのだ。
 
では一体何が「思っている」のか。それを人はつかめない。だから、あがく。「思う我」と「ある我」の間には、言葉で表現することのできない亀裂がある。この亀裂を超えない限り、人はほんとうの「わたし」を知ることはできない。
 
以上、引用終わり。
 
この亀裂のナゾを解くことがポスト構造主義最大のテーマだったと言っても過言じゃない。そこで、出てきた結論は、そこには「もの自体」が挟まっている、というもの。つまり、「もの自体=物質の起源」を挟んで、僕らの意識と無意識がグルグルとラットホイールのように旋回し続けているということだ。
 
BABYMETAL風に言うなら「悪夢のロンドが繰り返されている~♪」ということになる。このロンドに飽き飽きしているのなら、ワシらは「もの自体」に突入するほかはないじゃろう。その入り口が「奥行き」にあるという筋立てがヌーソロジー。
 
だから、ヌーソロジーは自我論でもある。ただし、そこで精神と物質を分けて考えない。だから、当然のように素粒子も出てくる。いや、出てこないとおかしい。結局のところ、学問における文系・理系の乖離自体が近代自我の産物であるということ。両者を接合しない限り、意識進化なんてものはやってこない。それを推して知るべし。