観察されるマクロ系と観察するミクロ系という発想を!!

物質の大元は何か。それは素粒子である。素粒子とは何か。それは波動関数である。波動関数とは何か。それは複素数の波である。複素数の波とは何か。それは複素共役を取れば、存在確率として解釈できる何かである―これが今のところ、物理学で分かっている物質の究極の姿。
 
物質の究極が確率なら、それが無数に集まってできたオレの世界だって確率にすぎないだろと、物理学発のニヒリズムを自分の人生に重ね合わせて人生自体ニヒリズム化する連中もいる。また、そうした空虚な実在感は社会の在り方にもボディーブローのようにダメージを与え続けている。意味の場の喪失。
 
けれども、「危機のあるところ、救いとなるものもまた育つ」。量子論は科学的知性に裏付けられているという意味では、歴史上展開されたいかなる形而上学よりも、最も真理に近い形而上学的書物ではないかと感じてる。問題はその行間を読み解く知性が人間側に不足しているということ。
 
では、どのような知性が不足しているのか。ここは、ハイデガーに倣って存在論的知性と言っていいと思う。ベルクソン=ドゥルーズに即して言うなら、「潜在的なもの=差異」の知性だ。
 
この知性とは何か―それは過去を存在として看取できている知性と言っていい。過去は過ぎ去って、現在にはもうないものとして片付けるのが人間の知性だが、この知性は過去の総体そのものとして、今「在る」。
 
この「在る」の重みの感覚を身体を始めとするすべての存在者に重ね合わせて感じ取らないと、量子論もまた真理として読むことはできない。なぜなら、存在するすべての事物はこの「在る」ことの中において生成し、その「在る」のむき出しの姿が量子そのものではないかと考えられるからだ。
 
たとえば、ある物理学者は次のように言う。
―量子の状態は観測されるミクロ系と、観測するマクロ系の間に位置するものであり、ミクロ系に備わっている物理的実体なんかではない。
 
彼はミクロ世界には物理的実体がないことを十分に承知している。つまり、すでに彼にとってはミクロ系は存在者の世界ではない。そこは、存在者の感覚を持ってしては絶対に入れない領域、つまり、絶対的差異の領域で「在る」と知っている。かつ、それが何かを考えることが物理学者の役割ではないことも。
 
ただ、彼はここで致命的な勘違いをしている。それは「観察されるミクロ系」と「観察するマクロ系」という表現の中に表れている。つまり、彼は最初からミクロ系(量子)を観察されるものとして対象化してしまっている。その先入観自体が彼がミクロ系から締め出される原因になっているとしたら。
 
要はすべてが逆なのだ。世界中のどの物理学者にも、観測されるものがマクロ系で、観測するものもがミクロ系だという発想がない。人間の身体であれ、脳であれ、それらは観測されるものである。観測しているものは一体どこにいるのか―それがミクロにいるという発想がないのだ。
 
奥行きを通してミクロの系へと侵入しよう。それさえできれば、ハイデガーのいう現存在としての人間は存在の只中に新しい原初として立つことができるようになる。それは量子の謎を解き、存在者の世界を覆っているニヒリズムの海を瞬く間に蒸発させていくことだろう―来たれ、救済の十字架。複素平面よ。
 
下写真 「デュシャンの量子化」ヌーソロジー作(笑)
デュシャンの量子化