ヌーソロジーから見た「ものの立ち現れ」の次元

過去と現在は、連続する二つの時間を示すのではなく、共存する二つの要素を示している。その二つの要素の一つは、絶えず過ぎていく現在であり、もう一つは決して存在を止めることはないが、それによってすべての現在が過ぎていくところの過去である。
ドゥルーズ 「ベルクソンの哲学」P.60

「すべての現在が過ぎていくところの過去」とは、「決して現在であったことのない過去」とも言われるもので、時間が生まれる前の過去のことです。ドゥルーズは「純粋過去」という言い方もしますが、要は僕がいつも言ってる時間のない「持続」世界のことと考えてください。
ここに書かれてある感覚を作るのは、自分の中に息づく持続感覚を確認する意味でもとても大事です。ただ、欲を言えば、現在から持続を感じ取るだけではなく、そこからさらに、持続側から現在を見る感覚が作り出せてくると、そこに、ものの立ち現れの次元が見えてきます(何段階かの思考プロセスが必要になってきますが)。

ベルクソン=ドゥルーズの哲学的な観念だけではたぶん抽象的すぎて非常に心許ないので、ここに空間構造を与えて、存在論の空間認識化を図ろうとしているのがヌーソロジーです(OCOT情報を執拗に解き明かしていった結果、こういう結論になった)。
ドゥルーズがここで言っている内容をヌーソロジーの空間構造に翻訳するとこんな感じになります(下図参照)。


【1】連続する時間における過去と現在の位置
【2】絶えず過ぎて行く現在
【3】すべての現在が過ぎて行くところの過去


【1】と【2】は、3次元空間を瞬間として次々に生み出してくる受動的時間に当たります。
一度、【3】の中に入り、そこから持続を能動的時間に変えて出現させること。そうすると、自分の心の中から時間と空間が生まれてくる感覚が生じてきます。その経験を行なわせている場所が、以前示したブロッホ球だと考えるといいと思います。正確には自己と他者が互いにブロッホ球として出会うことところですね。ヌースがいつも「内的共同体」と呼んでいるものです。
この出会いが起こると、自分が物質とともに世界に光となって出現してきている感覚が生じてきます。そこに生じてくるのが能動的時間感覚です。これは受動的時間を人間に与えていたもの側の世界だと考えていいと思います。ヌースにおいて「いずれ人間は物になる」とはそういう意味です。

私は物となり、そこから物の立ち現れとしての時間そのものとなった―。

ここでは哲学的な表現をしていますが、この記事の意味は物質を霊化していくためのヌーソロジーからのアプローチと言ってもいいでしょう。青と赤で表現された4次元方向の奥行きの働きは自他では真逆に構成されていて、双方からこのような空間認識が開始されることによって、4次元空間の中で産霊(ムスビ)が起こり、そこから物質の霊化が起こってくるというシナリオです。
先は長いですが、もう始まってますよ。

4次元の奥行きの仕組み