暗がりを照らし出す光を!

物を対象化しない意識。そこにフィシスとしての意識活動がある。生成とはそういうものだろう。この意識に同調していくためには、光がどのようにして生まれているのかを知る必要がある。というのも、光とは、物を対象化するために存在が送り出しているものだからだ。その意味で、人間は今もなお光の中で溺れている。

分かりやすく言うなら、光は「間」を欠いているものだということ。「間」は物の内部という解釈でいい。物理学的にはスピン1/2を知らない旋回性と呼んでいいただろう。その意味で、光には自己と他者を真につなぐことはできない。あえて比喩的に言うなら、”露わで、明晰なもの”には、人と人を結びつける力はないということだ。

論理的であること。科学的であること。理性的であること。それらはすべて光のロゴスの眷属であり、こうした明るさが一方的に世界を引っ張って行けば行くほど、人の心は暗くなり、人と人との距離はどんどん離れ、存在の詩は聞き取れなくなっていく。今という時代はそういう時代のように見える。

明るさが悪いと言っているのではない。暗がりを知れ、ということだ。現れている世界の裏には、それらすべての母胎となる暗がりがある。この暗がりを知らなければ、明るみの意味も分からない。この暗がりを照らす光になって初めて、光は自身の完全性を取り戻す。本来の存在の光とはそういうもの。

となれば、唱えるべき言葉はただ一つ。
光の中の光を逃れて、光の外の光あれ!!