集団幻想と個人幻想

集団幻想に生きるか、個人幻想に生きるか。どのみち今の私たちはその二つの選択肢しか持っていない。しかし、ほとんどの場合、個人幻想は集団幻想に隷属していて、社会へと折り返され、結果としてオイディプス化を強化するようにしか働かない。21世紀以降のリベラルの全体主義化がそのいい見本だ。

80年代から90年代、インターネットの黎明期には、グローバルブレインを夢見るヒッピー上がりのイノベーターたちの活気で満ち溢れていた。それぞれの個人幻想が内的フロンティアの中で、それぞれのシナプスが結合させ、そこに生じてくるネットワークがいずれ地球規模の脳の誕生を促す——グローバルブレインは希望に満ちたものだった。

しかし、この夢も大きく崩れ去ってしまった。今やこのグローバルブレインはサウロンの塔のようにモルドールの大地に峻立し、半ばオーク化した私たちを神のようにして支配している。冷静に一歩引いた目で見るなら、デジタルモダンの現実とはそのような風景と呼んで何ら差し支えないだろう。

このような状況の中で、”古き良き主体の回復”を叫んだところで、それもまた個人幻想の一つとして集団幻想(国家主義や民族主義)にたやすく回収されてしまうことだろう。要は、リベラルであれ、保守であれ、オイディプス化の産物だということ。このダブルバインドの呪いはそうは簡単に解かれることはない。

太陽の周りで、グルグルと回り続ける戸惑いの星としての惑星。夏には熱せられ、冬には冷やされる。集団幻想と個人幻想の関係もまた同じようなもの。この反復から出るためには、自分たちが何の周りを巡っているのか、それを知ることが必要だろう。

要は、「汝、太陽となれ!!」ということだ。

太陽と惑星