ちらし寿司と花見

 暖かい1日だった。絶好のお花見日和ということで、午後から家内と二人でちらし寿司弁当片手に福岡城趾へとお花見に行く。予想通りの人の多さ。学生らしき集団があっちやこっちで一気を開催中。いかれたアホのコンビが裸になって木によじのぼっている。こっちじゃ、会社の研修会の続きでもやっているのだろうか。。周囲の喧噪にかき消されそうな中で一人の若者が自己紹介をやらされている。かわいそうに。これじゃ聞こえんぞ。

 昔は花見をしている人たちが作り出すこうした汗臭い喧噪が好きだったが、年のせいか、最近はやはり疲れる。どこか、もののあわれの雰囲気に囲まれて、ゆっっくりと特製ちらし寿司弁当を食べれる場所はないものか。。と思っていろいろとうろついてみるものの、出遅れたせいでなかなか良い場所が見つからない。わたしも家内もとうとう空腹感に負け、途中、たこ焼き屋といか焼き屋の屋台が出ている最悪な場所の周辺に座り込むことに妥協。結果、全く風情に欠ける花見とあいなってしまった。——これじゃ、白木屋と同じやな。とぶーたれながら、特製ちらし寿司弁当の包みを開ける。。

 これほど劣悪で風情のない空間を選んだにもにもかかわらず、桜の枝間を埋め尽くした花々の咲き綻びに意識を集中していると、どこからともなく、あの桜の精のアウラ光線が差し込んでくるの分かる。すると、生者の時間はすぅーとフェイドアウトしていき、代わりに死者の時間がフェイド・インしてくるのが分かるのだ。こうした瞬間に決まって思い出すのが、

桜の木の下には死体が埋まっている——

というあの有名なフレーズだ(確か日本の作家の言葉だったか。)。
——そう。本当は、桜の木の下には数えきれない数の死体が埋まっている。死者たちの魂は木に吸い取られ、死霊として幹や枝葉に宿り、そして何よりも彼らの滴り落ちる血が桜に花を咲かせる活力を与えている。桜の花びらが薄いピンク色なのは、地中に収まりきれなかった余剰の血の色がにじみ出ているからだ。——美の裏に潜む死のイメージ?それとも、死が送り出す美のイメージ?まぁ、よくできた詩的表現には違いないが、やっぱり今イチ、面白くない。so fucking what?。詩や物語はもういい。やっばり、わしはヌースやな。。テキスト早く作らんと——と、生者の時間に戻ってくると、

「このホタルイカのしょうゆ漬け、おいしいね。」とにこやかに笑う家内の顔があった。
「………。」

わたしは無言でうなずいた。確かに旨い……。天気もいい。人々もとりあえずは平和なウィークエンドの午後を楽しんでいる。決めた。来年の花見も、このちらし寿司にしよう。