アビエーター評

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今日は会社が終わった後、家内と二人で映画のナイトショーへと出かけた。取り立てて見たい作品があるわけでもなかったのだが、スコッセシとディカプリオがタッグを組んだ「アビエーター」という作品を観た。この作品で今年こそディカプリオがオスカーを取るのではないかと噂され、結局、見事、空振りに終わった作品である。見て、なるほどと思った。これではオスカーは難しい。

 ディカプリオはとてもうまい役者だ。ジョニー・デップと共演した「ギルバート・グレイブ」での身障者の演技や、「太陽と月に背いて」のランボーの役などを見る限り、彼は天才としか思えない演技の閃きを持っている。しかし、タイタニックの大ヒットが余計だった。あの狂い咲きのせいで、ディカプリオ=タイタニックというイメージがあまりに先行してしまい、観客側に取っては他のキャラへの感情移入を阻むレオキャラが無意識のうちにできてしまったのだ。幸か不幸か、役者がそうしたキャラを持ってしまうと復活には10年はかかる。ディカプリオはこの「アビエーター」でもかなりの熱演をしているのだが、どうしても、わたしの中でハワード・ヒューズへと変身してくれない。そのもどかしさが3時間というただでも長い上映時間をより冗長に感じさせた。スコッセシの演出手法が少し中途半端だったせいもある。やっぱり、今のディカプリオでは、この役柄はちと荷が重すぎたのではないか——。

 まぁ、ディカプリオ評はともかく、この映画の中で描かれているハワード・ヒューズという人物、わたしも詳しくは知らなかったのだが、それこそ時代の嬰児と言っていい人物である。18歳の彼が親から莫大な遺産を受け継いだのが1920年代。この時代はいわゆるローリングトゥェンティーズと呼ばれる時代で、19世紀の古い価値観が音を立てて軒並み崩壊し、モダンへの構造変動が津波のように押し寄せて来た激動の時代だった。ハワード・ヒューズはその受け継いだ全財産を映画と飛行機へと惜しみなくつぎ込む。映画と飛行機。これらの技術はまさにプレモダンからモダンへの移行を象徴するテクノロジーでもある。こうしたテクノロジーに臆面もなく素っ裸の人間として魅了されていくヒューズは、この時代を疾走して行く無意識の高波の上をさっそうと滑っていくサーファーのようにも見える。

 墜落事故で命を落としそうになっても、ただひたすら「速く飛ぶこと」の強度に魅かれ続ける彼の享楽的な生き方。その一方で、彼は極度の潔癖症でもあった。見えない細菌の恐怖に対して異常なまでの恐怖心を抱くのである。この分裂症的な気質と神経症的な気質のコントラストは、まさに資本主義という欲望機械がもった光と影そのものではないか。ヒューズはこの陰影をあまりに強烈に刻み込まれた魂の一つだったのだろう。この映画のタイトルにもなってる「Aviator」。これは飛行士、操縦士という意味だが、彼が操縦桿を握っていた場所は、間違いなく資本主義という欲望機械のコックピットだったはずだ。映画のラストシーンで精神を病んだが彼がひたすらリフレインするthe way of fututeという言葉。。それは、操縦士が墜落死したあとも尚も回り続けているプロペラ音のようでもあった。

 ちなみに、今話題のホリエモンをこのハワード・ヒューズと比較したがる人たちがいるようだが、日本人の未来のためにもそんな想像は止めよう。あまりにも悲しい、あまりにもむなしい夢想ではないか。。。

 全編を通して流れる古き良きアメリカのスタンダードナンバーが最高だったのて、わたし的には★★★ぐらいの作品。ただし、レンタルビデオ屋で借りれば十分である。