魚たちの国

 水の中を茫漠とした意識で泳ぐ魚たち。おそらく彼らはそこが水の中であるということを知らない。目前に浮遊するプランクトンをただパクパクと食しながら、その開いているのか閉じているのか分からないようなギョロリとした目玉で夢遊病者のように今日も海中を徘徊する。彼らは徹底した斜視である。その斜視のせいで、彼らには前が見えていない。いや、正確に言えば、前後を左右に見ている。この意識の在り方が彼らの目の形態形成を決定づけていると言ってもいい。

 魚たちにとっての、この「前」の見えなさは、現実を見えなくさせられた人間の意識のメタファーなのかもしれない(実際にはメタファー以上の関連があるのかもしれないが)。僕らは確かに自分が人間の身体を持っていると信じて疑わない。しかし、身体に意識が行き届いているかというと、人間の意識の自由になるのは随意筋関連の器官ぐらいのもので、ほとんどは「自分の」と呼べるほどの支配力は持ってはいない。その意味で言えば、自我意識は人間の身体が生成している場所からは遠くかけ離れたところにいるのだ。だから、君はなぜ人間が二本足で歩くのか知らないし、なぜ二つの眼が顔面についているのかも知らないし、そもそも顔面が何なのかも知らない。となれば当然、「前」についても何も分かっちゃいないはずだ。

 前を見るということはどういうことだろう?君は本当に前を見ているのか?ひょっとして常に横を見ているのではないか?前とは何だ?ちょっと考えて見ればすぐに分かるが、「前を見る」という物言いは正しい日本語ではない。というのも、「見ること」は絶えず「前」においてしかできないからだ。見えるのはいつも前——何のことはない。前とは実在が存在の開けを示してくる方向なのだ。しかし、僕らが慣れ親しんだ空間には、この「前」と相対する方向としての「後ろ」があり、かつ、左-右と上-下といった計6つの直交する方向性が存在している。古代人たちは、この6つの空間の方向性のことを「六合(くに)」と呼んでいた。もちろん、この「くに」は、現代人が考えているような「国(くに)」とは全く違ったものである。

 「国」とはその字体が表しているように、有限の囲いによって内部に閉じ込められた玉の場所である。玉とは本来、物質化した霊(たま)を意味する言葉だが、ヌース的解釈ではこれらは物質そのもののことにほかならない。世界は玉で満たされているのだ。よって、物質が囲われた場所としての国とは、この場合、僕らが宇宙と呼んでいる場所(時空)のことを意味すると言っていい。
 時空はご存知のように空間としては3次元だ。3次元空間自体には「前後・左右・上下」といった身体から派生している方向づけの意味合いは一切存在していない。近代が作り上げた科学的な世界観においては、3次元は入れ変え可能であり対称性を持っている。そこでは見事に「六合(くに)」が消滅しているのだ。

 話を分かりやすくしよう。僕らはこの近代が理性的と呼んではばからないこの平板的な3次元を、すべて「前」として経験することができる。グルグル身体を回せばいいだけの話だ。しかし、そのとき、当然、この3次元は「後ろ」としても経験されているはずだ。こり両者は同じ空間ではない。というのも、前を経験しているとき、同時に僕らは後ろも概念として経験しているからだ。いや、後ろだけじゃ話は済まない。左-右だって、上-下だって、それらは常に同時に身体感覚から派生してくる方向概念として併存している。となれば、「六合(くに)」には、本来、六種類の3次元空間が存在していることになる。身体が存在する場所はそうした18の方向性を看取することができている空間である。

 話を魚に戻そう。ヌース理論がいう「水」とは、これら身体的空間の差異が見えない3次元世界のことを指す言葉である。つまり、水とは「国」の中に捕われの身となった「六合」のことなのだ。そこに住む人間が水蛭子(ヒルコ)と呼ばれるのはそのような理由からである。彼らは水の種族として、左右方向への視力を用いて前後を見ている。奥行きに与えられた距離とはそうした斜視の視力の産物である。