女の風景

寝た。久々に寝続けた。寝て、寝て、寝まくった。おかげで熱も治まり、こうしてまた下らないことを書こうとしている。

 人間、カゼぐらいの軽い病気のときが一番幸せなのかもしれない。ウィークデーでの昼下がりをぬくもりのあるベッドの中で過ごす、この上なく至福な時間。ここにはあの昔懐かしい女の風景がいつも広がっている——近くの小学校から聞こえてくる子供たちの矯正。遠くで鳴り響くヘリコプターの飛行音。ときおりどこかの家のバカ犬が吠え立てる。裏山からは野鳥の鳴き声。寝室の天井に小春日和の陽光がキラキラとゆらめいて、小学校の頃、カゼで学校を休んだときの情景と寸分も変わらない風景が当たりの空間に舞い降りる。。

いきなり襲ってきた咳ではっと我に返る。オレは今、この世にいなかったぞ。オレは確かに今、この世に存在していなかった。ほんとだ。あの天井を見ていたのは一体誰だったんだ?そこには誰が見ているのでも、誰に見られたものでもない無人称の風景があった。主語という主語が、動詞という動詞がすべて消え去ったセレンシオン(静粛)な空間。それがオレが女の風景と呼んでいるものだ。

 女の風景は歴史には一切,登場してこない。もちろん、社会からも忘れ去られている。ニュースでだって流れたためしはない。しかし、戦場にだって、都会の雑踏の真ん中にだって、ホワイトハウスにだって、皇居にだって女の風景は存在するだろう。この風景は人間の命綱だ。その場所があるからこそ人間は生きていられる。その場所では、時間(タイム)は壊れて(ブレークして)、永遠が顔を覗かせている。ときとして、それはのどかさという少女の風景となり、また、分裂症という発情したメスの風景となり、ニヒリズムという妖婆の風景となる。

 文明の発展?…あなたの人生?…一体、それがなんだというの?女の風景はいつもその生暖かい柔肌でオレの理性を黙らせようとする。白痴になれとでも?なれば?人間でいることはそんな甘いもんじゃない。へー、そうなの。じゃあ、勝手にすれば。おい、ちょっと待ってくれ。何よ?もう終わりか?あまりに冷たくないか?わたしは別にあなたの召使いじゃないもの。彼女はいつもそっけない。しかし、そうはいいながらも、彼女が訪れるとオレの魂の鏡面の曇りは必ず浄化される。何でもないこと。取るに足りなさすぎて、それがあったのものなのか、それともなかったものなのかさえどうでもよくなってしまうような空-隙の時間。そんな時間の瞬間,瞬間の穴からオレの周囲の空間に光合成が働き始め、フィトンチッドで濾過されたおいしい酸素がしみ出してくるのだ。浄化とは女にしかできない技だ。

 女の風景は不思議なものだ。ちょっとでも体を起こすと、それはたちまち色褪せ、何もなかったこととして記録される。仕事がたまった。締め切りが迫っている。ああ、今月は売り上げは大丈夫か?たちまち、世界はオレ、オレ、オレで満たされる。弛緩していた細胞が、ジリジリと音を立てて凝固していくのを感じる。まぁ、人間をやっているのだから致し方ない。明日からまたしばらく男を生きよう!!

 「ボーッ」としてた、ということを、男のオレなりにくどくど言い回すと、だいたいこんなところか。