交信記録19940205

交信記録19940205

人間において食べるという行為は意識において何を意味しているのですか。
形作る次元を内面に生み出すということ。表相から内面に働きかけるということです。定質の対化によって元止揚を生み出していくためには必要な行為です。

元止揚とは何ですか。
反映としての覚醒作用を意味します。中和の交差の上次元に働かされるもの。変換作用が作り出されるときに働きに変えられるもの。人間の意識の方向性を反映から次元に変えるもの。

生態系における食物連鎖とは何ですか。
位置の交差の次元と反映が生まれるまでは必要な次元です。

変換人の次元に入るとものを食べなくてもよくなるのですか。
位置を形作る必要がないので食べるという行為はなくなります。人間の意識が上次元を関与するようになればそのような状態になるでしょう。

■解説
 この交信内容に登場する内面、定質の対化、元止揚というのは、おそらく人間の意識次元におけるそれではなくヒトの次元におけるものだと考えられる。ヒトの意識構造は人間の意識構造と相似関係こそ持つものの、あくまでも比喩的な言い方だが約七倍の大きさを持っている。

人間の意識構造 ψ1〜ψ14
ヒトの意識構造 Ω1〜Ω14(まだ定かではない)
(ψ7=Ω1)

つまり、次元観察子ψ11が人間の意識の定質だとすれば、これはヒトの意識構造においては大系観察子のΩ5に相当し、ヒトの意識の定質はΩ11に当たる。その意味で人間がものを食べるという行為はヒトの意識の定質の対化であるΩ11〜Ω*11当たりに関係を持っているということになる。

 食べることが肉体を保持するための必要不可欠な行為であることには違いないが、同時に、食べることは精神を保持するための行為でもある。一体、食べることの精神における本質とは何なのだろうか。わたしたちはなぜ生き物を食べるという、一見、残酷に見えるこの行為を必要としなければ生きられないのか——。

 『シリウス革命』にも書いたが、OCOT情報によれば、自然界の生物とは人間自身が持った情念と思考の物質投影物ということになっている。植物が思考で動物が感情に対応しているというのだが、もしそれがほんとうならば、「わたし」が何かを思考したとき「わたし」は地球上のある種の植物へと変身しているということになる。「わたし」の中に怒りであれ、妬みであれ、喜びであれ、何かが感情としてうごめくとき、そのエネルギーは無時間の空間の中のどこかで純粋なアニマの形を取って、ある種の動物へと変態しているのだ。それは野をかける子ウサギのときもあれば、地を這い回るトカゲのときもあるだろう。

 こうした考え方は何もOCOTの専売特許ではない。たとえば、ドゴン族の伝承では、ひとりの人間が死ぬとき、自然界のすべての動植物の一対もまた死ぬと言い伝えられていた。これもまた、人間の意識自身の中に全生物種のゾーエーが凝縮されているとする思想を反映している。

 人間の内在野の中にある霊的自然。そこで連なっている霊的な連鎖体と、物質的生命としての生態系を重ねてイメージしたとき、無数の補食行為とはリゾーム状に張り巡らされた霊的なネットワークにおける交通空間の在り方のように見えないこともない。たとえば、悲しみの感情が慰めの感情により沈められたり、怒りの感情が冷静な思考によっていさめられたり、愛の感情が嫉妬の感情によって憎悪の感情に変わったりと、意識はつねに流動を繰り返しながら生成変化を行っている。この状態を動植物の間の食の流れと想像してみるのだ。一見、惨いことのように見える補食の行為もこうしたイマジネーションのもとでは生命システム自体が持った内部コミュニケーションのように見えてきはしないだろうか。

 で、問題は人間だ。幸運にも今の人間は食物連鎖の頂きに立つ唯一の種として生きている。もし、人間という種が神の精神の投影物ならば、人間が経験する思考や感情はおそらく神が味わっている霊の果肉だということになるだろう。僕ら人間の肉が生態系から収穫された様々な食物を味わうように、その霊である神もまた人間の意識の中でさまざまな意識的果肉を人間の経験として味わっているということだ。その意味で言えば、この人間の身体にはありとあらゆる思考、そしておよそ想像される限りのすべての感情のもととなる情動のロゴスが充満していると言っていい。酸いも、甘いも、辛いも、苦いも、美味も、珍味も、そして毒も。。神の精神はその全肯定としての自身の履歴を生態系の多様性として反映させ、その完成を人間の身体として表現し、再び、今、始源の大地に立っている。。。