カバラは果たして信用できるのか?——その7

前回よりのつづき――

 では、無の一滴へと変貌した存在者はいかにしてその無を新たな有へと変換していくのか、そこで展開される始源の第一原理とは何なのか。ルーリアのツィムツームはその原初に起こる事件の風景を見事にスケッチしているように思われる。——神は創造に当たって自らを収縮させ、神の内部から撤退した。その撤退跡には神による創造の場が用意され、自らを創造するものと創造されるものの場の二つに分けた——このツィムツームが創造の契機となる出来事であったとすれば、このツィムツームから生じる神の自己収縮は継続して行われていく必要がある。すなわち、一は二を生じ、二は三を生じ、三はすべてを生ずというように。でなければ、神のみが創造の場に存在するだけに終わってしまうだろう。それゆえ、ツィムツームとして生起するこの〈神の充満/神の撤退〉という最初の分化の間にはそれに引き続いて「思慮深い弁証法」が存在しなければならない。ここで”思慮深い”と言ったのは、もはやここで登場してくる存在の弁証法は(かつての)言語の体制によって営まれていた存在者における弁証法のようなものではあり得ないからである。

 存在者における弁証法とはヘーゲルの世界精神を例に出すまでもなく存在者の多を存在の一へと導いていくような弁証法であり、これは神が自らを世界に充満させていくための方法論でしかない。つまり、神の自己膨張なのだ。これはニーチェのいうように否定的なものによる弁証法であり、最終的には世界をニヒリズムへと導いていく。

 このへんのことは僕らの現在を見ればそれなりに想像はつくだろう。シミュラークルが作り出す差異なき差異の記号が世界に多を氾濫させ、グローバルな資本主義のもとすべての価値が貨幣という一者に換算され、均質かつ一様な空間の中で帝国的なものとそれを内在化させた超越論的自我が睨みをきかすといった監獄(パノプティコン)の風景——そこではもはや経験的自我が自分自身の生に対して意味を問うことは悪い冗談でしかなく、理性にできるレジスタンスと言えばせいぜい自分が置かれたその絶望的状況に冷笑を浴びせかけることによって自らのナルシシズムを満足させることぐらいだ。何をやっても無理なんだよ。宗教?哲学?芸術?ふふ、まぁ、せいぜい頑張りな。人間死ねばすべてが終わりなのにオメェーもほんと好きだな。所詮、生きることに意味なんぞねぇーんだから、いい暮らしして、いい女抱いて、適当にやっておくのが一番だぜ——超越論的なシニフェの体制(快感原則)はこうして外部を隠蔽し、内部を空虚な腐敗へと向かわせる。外部を否定すれば内部は自らの内部たる根拠を失い内部=無を露呈せざるを得ないにもかかわらず、だ。現代という時代の状況はまさにこうした典型的な受動的ニヒリズムに覆い尽くされており、存在が存在者にかけた呪いがあらゆるところで露呈してきている時代なのである。

 一方、肯定的なものを先手に持った弁証法はそのようなニヒリズムが極まったところで、つまり一者が自らが作り出した世界を覆い尽くしたところで、まさに一者自らによる存在者からの撤退によって出現してくる。言い換えれば、それは存在世界からの存在の撤退とも言える事件である。これがさっきからリフレインしているプラトニズムの逆転、すなわち生命の樹の逆転、ユダヤ的精神からの解放、すなわち、ニーチェが言うところのニヒリズムの極地に出現してくる「すべてのものにおける価値転換」である。

 この肯定的なものによる弁証法は否定的なものによる弁証法とは全く対峙するものであるがゆえに、当然のことながら後者とは真反対の性格を持つ。かつ、肯定的なものによる弁証法は、否定的なものと肯定的なものそれら両者を視界に捉えることができるゆえに、一の中における多性と多の中における一性、その双方を弁証法的に統合していくビジョンを所持している。言い換えれば、それは一なるものから分化を起こしていくことが同時に高次の統合を生むような弁証法のスタイルを採っている必要があるということである。こうした弁証法は自分のうちに絶えず収斂する運動と、同時に自分の外へと向けて無を展開する運動という二重の運動を持たなければならない。創造の展開=生成とはこうした条件を満たして初めて出現してくる現象なのである。

——つづく